最近僕はクドいほど社会とデザインの繋がりについて話したり、書いたりしています。
でも誤解しないでいただきたいのは、僕自身はエクスクルーシブ・デザインを尊重しているということです。社会性=インクルーシブ(日本的解釈で)ではないと僕自身は考えています。
日本ではインクルーシブデザインとユニバーサル・デザインは同義語で扱われています。エクスクルーシブはその逆、個人のためにあるデザインです。
もちろんユニバーサルという考えは重要だと思います。でも社会全体を取りまとめるデザインはとても難しい。そもそも社会とは何か?社会が認めたデザインが正しいかという疑問が大いに残ります。
結局のところ個が集まってグループになり、グループが集まって地域になり、地域が集まって社会を形成しています。森だってよく見れば1本1本の木で成り立っています。
社会と言えども利用する人は個でしかありません。個の満足があってこそ、それをとりまとめた社会があると思うんです。
僕は多分世の中ではコレクターとかデザインマニアとして知られています。自分では余り言わないけど、間違ってはないから言われて当然だと思います。マスプロダクトを仕事で関わりながらも、オークションやアートギャラリーでモノを買い漁っています。だからデザインは社会のためだけにあるものという認識はしていません。個人だけを満足させるためのデザインも重要です。でも、デザインは適材適所だと思っています。個人、グループ、地域、社会に求められていくアウトプットは違います。その場に応じた対処をしてこそ機能するものだと思います。個人だけが満足する物と社会が欲する物は違います。しかし、多くの個人が満足するものこそ社会という概念が成り立つと思います。当たり前の事かもしれないけど、様々なところに同じ力で表現していることが多い事を目の当たりにします。結局そのバランスがごっちゃになっている事が多い。
ただし、社会は大きなコミュニティです。自己満足ではなく相手の気持ちも考えなければなりません。好き嫌いは個人の判断だけど、社会という中にいるのであれば、客観性を持たなくてはなりません。デザイン的に嫌いでも機能と言う意味で理解しやすいものや、ウチのじーちゃんだったら使いやすいだろうな。という思いやりみたいなものは必要です。だから同じ個人のためのデザインであっても「自分のため」と「自分が考える誰かのため」という違いだけは認識しておかなくてはなりません。
それと、重要なのは個人のためのデザインを主張するためには個人がちゃんとデザイナーを支えなくてはなりません。ちゃんと買うということです。個人的なデザインをすればするほど、デザイナーは生活を維持するのは困難になります。好きなデザインを残したいと思うのであればちゃんとそこにコミットしなくてはなりません。その大きな行動が「買う」という事だと思います。ヨーロッパではちゃんとパトロンがいて、個人が満足する物を購入し、デザイナーやアーティストを支えています。パトロンまで言わずともそういった個人の支えがなければ維持はできません。相手もそれを分かっていて、言うだけの人と買う人では信頼関係が全く違います。僕個人もそれをやって来て、とても感じます。
美術館でもコレクターが作ったところが僕は好きです。買うという行為はとてもハードルが高い。それを乗り越えなければ分からないものがあると思います。そういう行為から集められたコレクションはモノとしての魅力を感じさせてくれます。そして、アーティストの気持ちも観客にちゃんと伝わってくる。
「柳本さん、最近考えが変わってきましたね」と言われる事がたまにありますが、僕自身はまったく変わって無いのです。
追記:インクルーシブについて分かりにくい部分があります。実際の意味によるとエクスクルーシブの集合体が社会性を持ち、インクルーシブになるようなので、僕が言っている事と変わりなく、じゃあインクルーシブでもいいじゃん。ということになりますが、日本ではユニバーサルデザインとごっちゃになっている感があり、本エントリーはそこに抵抗した文章になっています。つまりユニバーサルデザインは障害者や幼児・老人に優しいかもしれないのですが、個人の尊重する、例えば「モテたい」とかという部分はあまり反映されていません。エクスクルーシブは機能だけでは無いそういう欲望の部分を満足させる意味を持っています。