ここによくコメントをいただくミラノ在住の
anzaiさんが、日本でセミナーを開くということをご本人に紹介していただき、挨拶も兼ねて参加しました。
会場にはanzaiさんとも面識があり、僕も
iidaのプロジェクトでお世話になっている
H本さんも居た。H本さんに関しては議題に取り上げられていたので、後半くらいで書きます。
まず、セミナーの結論から先に言わせていただくとデザイン関係者というよりはネクタイを締めたビジネスマンが多く、相互理解が未消化のまま終了してしまったように思えました。
僕は常日頃、文化や歴史、精神性などやや社会学的な視点からデザインやさらにはビジネスに落とし込むことを考えているため、非常に興味の有る話題でした。
しかしながら恐らく多くの人はanzaiさんが話したヨーロッパ人の視点(ものの考え方)や日本人の持つ視点、同講演者で社会学者の
八幡さんの言う、精神性に頼ろうとする日本人の危機感と論理的思考の重要性というお二人の話がどうビジネスに直結していくかが、意識の無い人には全く分らないだろうなあと思いました。
anzaiさんが日本人はディテールにこだわり、世界観やコンセプトが不明瞭というところを批判されていますが、今回の話はディテールとコンセプトは理解できたが、世界観(文化とビジネスのリンクとしての)が不明瞭だった気がします。もう一つ、今回の話題のキーワードでもあった日本の文化の持つ「軽さ」という部分に関し、論理的に説明が出来なかった事も一因はあると思いました。
現にセミナータイトルが「欧州市場の文化理解とビジネスへの活かし方」というものだったのに対し、最後の質問者から「お二人の話とタイトルが全く繋がりが見えなかった」と少し批判的な意見が出ました。それ以前に質問された方も内容に関し批判しないまでも全体を包括したものよりも議題の中のそれぞれの小話題(ディテール)に対した質問が多かったように思います。
(相手はそもそも理解していないというところに立ち位置を見いだすのはなかなか容易ではなりません。僕自身もこのセミナーに参加していない人にちゃんと伝わっているかどうかを意識しながらも疑問に思いながらここに書いています)
そんな批判批判と書くと、あんまりいい内容じゃなかったのかと思われてしまいますが、僕にとってはストレートな共感を抱くものであったことは間違いありません。
僕が理解するに、anzaiさんは「現実性」をもっと要求するべきと思っていたのではないかなと考えます。
レグサスの哲学がとても日本人的な侘び寂びのような感性。感性というものは相互理解が難しい。欧州で成功させるには欧州人の文脈に合わせなければならない。との見解。
僕もごもっともだと思います。でも、レグサス自体にそのような戦略意志がそもそもあるとは思えないんです。レグサスだけでなく日本企業のサローネ出展全般に感じる事です。
僕のイメージは、海外の有名展示会で発表しましたという実績で箔を付け、市場は日本国内を狙っているように思えるのです。日本でしか使えない家電や携帯をわざわざ海外で展示するのも同じ事でしょう。
そもそもそこに「現実性」が無いように思えるのです。
何か何億円も使ってPRという名を借りた消費・消耗をやっているように感じています。
もちろん文化的発信は必要ですし、必ずしも利益に直結することだけが「現実性」ではないとは思いますが。
anzaiさんは講演の中でH本さんが2008年、2009年とサローネで発表した椅子について取り上げました。
上は2008年発表のうすいいす、下は2009年発表のくものすのいすです。
H本さん曰く「批評家受けは上が良くその年は賞を獲った。下は賞を獲らなかったが一般客の反応は良かった。」そうです。
anzaiさんはこの2つの椅子の評価と「軽さ」という価値観の違いに注目しました。
下の方が欧州的「軽さ」だと。
僕もそう思います。日本人が考える「軽さ」は圧倒的に上だと思います。日本国内の評価も上の方が高いと思います。では何故上は賞を獲っているのに日本的で、下は賞を獲っていないのに欧州的なのか?
これも個人的な見解ですが、一つは日本人が考える軽さ、デザインはマイナス思考だと思います。極限までマイナスすることにより生み出される美意識。逆に欧州はプラスすることにより「軽さ」を表現しようとする。複雑に絡む針金を構造計算により機能を持たせるまさに下の椅子の方に近いです。上は何度も言うようですが、日本人の美意識が反映されています。海外の人にとって僕はそれを神秘的だと思うように感じます。つまり東洋の持つ神秘性、オリエンタリズムです。
オリエンタリズムもれっきとしたビジネス戦略になっていると思うんですが、西欧人にとっては神秘的なものに惹かれる気持ちでしか無いように感じる事がよくあります。結局日本のデザインはオリエンタリズムという漠然としたカテゴリーになんでも入れられてしまっていると考えます。
俺たちは日本人の美意識が分ってるんだよ!と言わんばかりの海外批評家は絶賛(というモーションかもしれない)するけど、マーケットには乗っからない。
あえて相手の分る足し算的なデザインで「軽さ」が表現された下の椅子は、欧州ではスタンダードな思考なのであえて賞を獲るまでもないと判断されるでしょうが、一般受け(一般理解)はされるわけです。
H本さんの椅子には当てはまらないかもしれないけど、もう一つは講演者の八幡さんが言っていた「時間の重さ」も「軽さ」の判断基準になっていると僕も思います。
歴史を考え、日本と欧州ではどこが違うかと自分なりに考えると、占領というキーワードが出てきます。長い歴史の中でヨーロッパはローマに占領されたり、トルコやイスラム、チンギス・ハーンによる征服など土地はおろか、もともと持っていた文化や思想など自分達のアイデンティティを脅かされる経験を積んでいます。だからこそ今存在する喜びを歴史と重ね合わすのではないかと思うんです。これによって古いものを大事にする欧州的な思考が生み出されているような気がします。逆に日本はアメリカの統治下になったことなど多少あっても、本気で植民地になったことは無く、多くは内戦による領地の取り合いで、国内ですから文化まで変わる事は無かったことがあまりモノに歴史的重みを求めなかったのではないかなと漠然と思います。
伊勢神宮などに見られる
式年遷宮(定周期で建物を壊し、また作り直す)のようなものはモノに歴史的意味を持たず、形式に伝統を求めている例だと思います。日本人の潜在宗教ともいえる八百万の神は形の無い存在で、たまたま何かに宿っているだけで、モノが新しくなったらヤドカリのように神様が引っ越すと考えているフシがどこかあります。だからこそ「軽い」のではないでしょうか?
本気に欧州で正当な評価、ビジネスを考えるのであれば欧州的な「軽さ」の概念やオリエンタリズムからの脱却、欧州人の文脈に沿った戦略を根本から理解しなければなりません。多分anzaiさんも同様のことを考えておられると思います。
また、八幡さんの言う論理的なものの考え方にも賛同します。
僕は感情や感覚といった漠然としたものに、実は非常に高いビジネス戦略があると思っていますが、その感情や感覚を論理的に説明できるようにこのブログでも極力やっているつもりですし、常日頃の仕事でも努力しているつもりです。
僕は自分自身、物書きやジャーナリストなんて思っていませんが、少なからず書いたり、喋ったり、モノやデザインと人を結びつける仕事をやっている以上、好き、嫌いと言った主観的な感情であっても、極力、具体的に、論理的にどうしてそう思うのかを説明しているつもりですし、そういう立場にいる人は皆、論理的に説明する義務があると思っています。それこそが、デザインそのものに一般理解が得られない唯一の打開策(言葉を使う表現の範疇内で)だと考えています。