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Midnight Airport 09

毎年この時期になると、何やらざわざわし始めるのが、Midnight Airport
5年前、阪神淡路大震災の10周年イベントとウチの取引店のNOTAMさんの1周年を記念して始まったトークイベントですが、もう5年目になります。
 
それにしてもNOTAMさんはこの5年で関西の有力店になりましたね。
羽田のオサレオミヤゲ屋「Tokyo's Tokyo」よりも早く関空オリジナルグッズや関空に「Satellite」というお店をオープンさせたり、関西ローカルですがTV出演をしたり、KLMやエアフラ協賛のイベントなどを手がけたり、先日もルフトハンザ大阪就航40年記念の展示会などをプロデュースしていました。
 
そして、今年は「深夜」ではなく「早朝」から開始。それには理由があります。
今回のイベント会場は関西国際空港です。恒例のトークイベント(今回は場所柄セミナーと言う言い方です)の前にその関空のご好意により空港内の保安地区(滑走路から飛行機が駐機しているあたり)をバスツアーでまわる事ができます。
ただし、航空事情を分っている人はご存知だと思いますが、海外からの飛行機は早朝にやってきて、お昼くらいには飛んで行ってしまいます。だから夕方にツアーをやっても飛行機はありません。ですので、飛行機がわんさか集まっている時間にツアーを組んだという次第です。
その後、確か昼食で作りたての機内食を食べます。作り立ての機内食は驚くほど美味いそうです。
 
その後、はトーク(セミナー)です。
1回目はウチ(Glyph.)の活動について話しました。それまで公開トークや公式サイトなどを持たなかったため、当時はいろいろなところで都市伝説のように語られていたのですが、この時はじめて公式に活動(というかフィロソフィのようなものを)紹介しました。
2回目はウチのモノの集め方と飛行機の話がメインだったと思います。
3回目は雑貨業界の話、関西の人気雑貨店のディレクター兼バイヤーでもあるH賀さんを交えてお店作りの話などを
4回目はもう一度原点に戻って飛行機、空港事情などの話をしました。
そして今回は、場所柄、空港の話をすると思います。空港と言ってもどこの空港の内装は誰がやったとか、どういう家具が並んでるとか、サイン計画は誰がやってどういう書体を使っているとか相当マニアな話になると思います。
 
今回はバスチャーターや食事代もあるので参加費はちょっと高いのですが、サイトに紹介されているサプライヤー(下の方)を見ても分る通り、各協賛会社からおみやげがあります。それが毎年紙袋にいっぱい詰まっている。航空会社ロゴ入りグッズなど、ほとんどが非売品ですから、これだけでも相当なお買い得感があると思います。
 
と、ここまで話を広げておいて、実はバスの人員などの関係で既に定員に達してしまったためトークイベントの予約は終了してしまいました。飛び入り参加も出来ません。
 
ただし、本当のMindnight Airportは2次会から始まると裏でいわれている通り、2次会は神戸に会場を移し、飲み会を兼ねたもっとディープな交流会が恒例のごとく毎年朝まで行なわれます。(もちろん終電など途中退場も可)昨年は30人強が参加しています。
こちらは、13日夜からになると思いますが、こちらだけでも参加希望の方はNOTAMさんのHPのmailからコンタクトしてください。
飛行機マニアが多いのですが、どちらかというと旅が好きだとかデザインとして好きとかグッズが好き(雑貨好き)の傾向が多いので、一般の人でも話には入りやすいです。是非!

| Culture | 23:51 | comments(3) | - |
石立鉄男と倉俣史朗
最近未整理だった雑誌の切り抜きをファイル収納し始めています。特に未整理で多かったのが1965年から72,3年の建築・デザイン誌です。
 
ご存知の人も多いのですが、僕は毎月相当な雑誌を購入し、それを切り抜きファイルしています。雑誌には様々な記事が掲載されています。特集、連載コラム、映画評や書評、トピックスなどなど。何年も経ってあの記事ってどこにあったかなあ?なんて探していると大変です。だから僕はカテゴリー別に切り抜いた記事をまとめてしまいます。例えば映画だったら監督名で分類されています。さらに監督でも記事が多くなると何冊にもファイルが増えるため、例えば「小津安二郎 1964-Vol.2」とかとします。そのファイルには1964年に公開された映画評、やインタビュー記事、映画パンフレットやチラシ、その後ビデオやDVDが発売された時の評論などが入っているので、サッと検索できるのです。
 
同様にデザイナーやら文化人やらファイルを分類して整理しているのですがその中で特に気になったのが倉俣史朗の記事でした。
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| Design | 22:50 | comments(1) | - |
僕にとってのデザインジャーナリズムって何だろう?
 編集者、デザインジャーナリストでもあるF崎さんのブログ「ココカラハジマル」で最近何回かやりとりをさせていただきました。前回エントリーでも少し触れた「デザインジャーナリズム」についてトークであまり聞けなかった事もあり、その消化不良になっている部分を訊ねてみたわけです。
 
(前回エントリーで不適切な言い回しがありましたが、それについても「ココカラハジマル」とS木さんのブログ「フクヘン」でやりとりがあり、誤解ある表現なので削除してもいいのですが、こういった相互関係や言葉の問題を第三者にも読んでいただきたくそのままにしておきます)
 
唐突ですが皆さんはデザインジャーナリズムをどうお考えでしょうか?
 
デザインマニアな僕は批評的視点を持ちつつもデザインの世界の中を泳いでいました。
しかし、企業やビジネスとしてデザインと関わるようになった頃から、デザインとはなんなのか疑問に思うようになってきました。
11月のデザインウィーク時に会場の一つ外の道を歩いていると、そんなイベントなんか全く知らない人が大勢歩いている。
家電量販店で携帯を見ていると横にいたギャルがデザイン携帯を見て「チョー使いにくそう」と言っている。
爆発的に売れている商品なのに流通のバイヤーが飽きてしまい、棚から外されてしまう。
 
僕が仕事で関わっているところの多くはデザインというものが軽視されて、都合がいいところだけ便宜的に使われています。多くの場合、デザインはかっこいいものとかエッジの利いたものとかという認識しかありません。それはデザイナー自身もそういうものだと認識している人もいるでしょう。
デザインに対する一般の誤解を感じれば感じるほど、僕はデザインに関わってきた僕自身を含め、どこかデザイン好き向けの身内受けすることをやっていたのではないかと思うようになってきました。
また、デザインに興味の無い人を上から目線で(例えば分らない人はダサイとか)見ていなかっただろうか?とも思う事もあります。
実はこの気持ちが見えない壁を作り、誤解を生み出しているのではと感じるようになってきたのです。
 
もちろんデザインジャーナリズムはデザインに向けて必要でしょうが、この誤解を解くにはデザインを誤解している人向けにコミュニケーションを取っていくしかありません。
たとえデザインという言葉を使わなかったとしてもデザインはどれだけ人々の利害関係と結びついているかを伝えなければならないと思っています。
 
デザイナーに対しても、前回のエントリーのように自然や先人に畏敬を持ってもらいたいと思います。そしてデザイナー達がクリエイティブと思っていない世の中の人達は極めて本能的にかつ的確にデザインを捉えている事を知る事も重要だと思います。
おばちゃんやギャルのほうが、より本能的で的確だと僕自身も感じる事が多々あります。
 
僕は幼少の頃、変な子供と思われていました。親にも訳の分からないガラクタを集めていると思われ理解してもらえませんでした。僕はその頃みんなに理解して欲しかった。そこで僕が考えてあげく発見したのは「相手の身になる」ということでした。つまり、相手が興味がある切り口であれば関心を持ってもらえるのではというものでした。
その1つが「価値」です。TV番組「なんでも鑑定団」によって多くの人が見向きもしなかったものがお宝になりうるということで関心を持ち、大衆に愛される長寿番組となりました。
 
4年ほど前、BRUTUSで「切手デザインをなめんなよ!」という特集前半を監修させてもらいました。(後半の美術切手はS木さんですよね?)切手は絶大なマニア市場がありながら、彼らの文脈の中で価値観が定められ閉鎖されていました。だから外側から見る人は「オタク」という偏見で見てしまいます。僕は切手にはもっと多様な楽しみ方があるはずだ(僕自身そういう観点で集めていたので)それをBRUTUSといった開かれた媒体で取り上げてもらい、その後かわいいという観点で切手を集める女子が爆発的に増えました。
 
エアライン、鉄道、僕も関わってきたこれらのものも同様に、今ではかなり大衆的になってきたと思います。
 
宗教や民族学をお笑いの観点から大衆に浸透させるみうらじゅんや「アメトーーク」のOO芸人にも似ています。
 
こういったことはデザイン業界にも通じると思います。人は直接の利害関係がないとなかなか興味を持ちません。どのようなアプローチが利害関係と結びつき、デザインの誤解が無くなることに繋がるひとつの要素だと感じています。
 
社会性といったら大げさですが、デザインの文脈から一歩出る事が僕なりのデザインジャーナリズムなど思っています。
もちろん、これだけがやり方では無いですし、僕は信じていますがやり方を間違っているかも知れません。それでも信じているのは実際これまで何度か成功してきたからです。
 
僕のスタンスはデザインマニアが喜ぶよりいいものを批評することでなく、どうしたら大衆がデザインに興味を持つかという部分です。だから最近は専門誌やデザイン的アプローチより外側で仕事をすることも多くなっています。
でも、僕自身はやっぱりデザインマニアです。多分この気持ちも無いとデザインに対し愛情ある関わり方が出来ないんだと思います。
| Design | 23:04 | comments(14) | - |
着眼点
 お世話になっている勝ちどきのShop btfdezain.netを主宰しているO田さんとデザインジャーナリストのF崎さんのトークショーがあるということで、デザイナーのトークはそれなりに聞く機会はあるけど、伝える側のトークってあんまりないので、これは!と思い行ってみました。
 
その前にF崎さんのブログでかなりの意気込みを感じ、期待が大きかったのですがその割には核心に触れる話が余り飛び出さず、ちょっと寂しかった。思うに会場の一番前の端にF崎さんのクライアントであるMハウスのS木さんが居たので、なかなか喋りにくいんだろーなーとは感じました。僕だったら結構言ってしまう事が多いです。よく編集部がウチに打ち合わせに来る際、かなり辛口批判をしたりします。企業もそうだけど大抵の場合当人達が一番その事を分っている訳だから「こいつ嫌な奴」なんてことにはあまりなりません。僕と当人は問題意識を分っていますが、第三者はあまり知る人は少ないので、僕はこういう機会こそそこまで踏み込んだ発言をするべきだと考えています。まあ、立場は人それぞれですから僕がトークする場を与えられた際は話をしたいと思います。
 
話を元に戻しますが、お二方はキャリアも長いし(O田さんは僕より少し年下ですが、学生時代から執筆などしていましたから)僕も少なからず同じような仕事をしているので「うん、そうだよな」という共感できる部分は多かったです。特にモノごとの見方の多様性という部分には僕もずっとここでも仕事でもいい続けている所なので編集に関わる最も重要な視点なんだろうなあと確認する事が出来たと思います。まあ、深い話はトーク後の飲み会で聞けばいいやと思っていたのですが、F崎はトーク終了後すぐに帰ってしまったので残念。また別の機会にじっくりお話をしたいです。
 
2部としてO田さんが昨年仕掛けた「日本史展」でキャスティングされたキャノンのデザイナー、S水さんとその上司のI井さんを交えての「愛のバッドデザイン」トークが行なわれました。
彼らはどこかお笑いのような感覚でやっているプロジェクトのようですが、僕は感動してしまいました。「バッドデザイン」と括ってしまうと心外なのかもしれませんが、彼らの選ぶものは、世の中で「このデザインいいよね!」と言われず無視されているものをピックアップしています。だから「無視されたアノニマスグッドデザイン」も多いのです。
 
僕もいつも日常の中の何気ない部分にモノごとのヒントがあると思っています。今回の感動した部分は、お二人のかけあいにありました。紹介される写真がスクリーンに映し出されるとS水さんはチョイスの理由をディテールやマテリアルなどかなりデザイナー的視点、論理的に解釈します。文豪I井さんの解説、というか詩の朗読は感性と着眼点の面白さを広げてくれます。見事なバランス! 
 
もっと感動したのはS水さんのいう「ノスタルジー」。
多くの場合、チョイスされた物は幼少の時代に体験した中から見いだされたものが多い。例えばカスタネットやよく田舎の家にあったトイレからニョキッと出ている煙突のような換気扇、お祭りでもらう金魚を入れるビニール手提げ、牛乳のキャップを外す針のようなオープナー。でも、僕は話を聞いているとノスタルジーじゃないんじゃないかと思いました。
 
例えばチューペットを選んだ理由についてかすかに残る匂い(製造工程の中でチューペットは中身のジュースに浸けて中身を入れるため、ジュースが外側に付着し、洗浄しても多少匂いなどが残っている)だったり、牛乳瓶の口に被せたビニールに関しては、剥がす時に部分的に接着された部分が外れる音だったり、カスタネットは赤青に塗られた塗装の質感だったり、子供の頃に体験したものは五感で記憶されている。ノスタルジーと言えばノスタルジーだけど、よく子供の頃の体験がその後の人生に大きな影響を与えると言われるように、僕たちが生活する現代の感性はその頃に養われたんじゃないのかなあと思います。ということは現在僕たちが選択しているモノごとの無意識の部分に大きな影響をもたらしているはず、単なるノスタルジーではなく現在進行形なのだと思うんです。
そして、デザインの認識が無かった幼少の記憶は多くの人の共感として結びつき、購買に結びつくとしたら、デザイナーの作る物はどうあるべきかという根本の問題にも関わってきます。
 
誰にも見向きもされないものにもデザインはあり、長年にわたり形状進化が無い物が多いため、日常に埋没し、皆がデザインだと余り認識していない部分。前に鋏について書きましたが、何百年以上形に変化が無い、つまり完成されたデザインなのです。
それでもデザイナーは鋏やナイフやフォークをデザインする。それについては僕も肯定はしているんですが、最近のデザインを見ているとあまりにも本質から逸脱し、形状としてとらえ、それをデザイナーの個性としてとらえようとしている感じを受けます。S水さんたちのトークを聞いていて、彼らのそういった物への敬意と愛情を感じたのです。僕はそこがデザイナーにとって大事だと思うんです。先人の遺してきたものにちゃんと敬意を払いつつデザインする清さは忘れてはならない部分だと思います。
そして無視された日常のデザインを発見することも重要なリサーチ活動です。ル・コルビュジェが世界を回って描いた遺跡のスケッチやイームズが撮り貯めた素材などの写真を見ると、彼らがいかに発見し、名も無きクリエイター達に影響され、愛情を持って自分たちの活動に組み込んでいったかがわかります。最近のデザイナーとかを見ていると、先人は先人でもル・コルビュジェやイームズのリデザインでしか無い事が多いのです。ネットで検索すれば出る程度でモノごとを思考しています。僕は膨大な収集をするので事例にはならないけど、いつも多くの人にリサーチや体験の少なさを感じます。
 
S水さんのバッドデザインは一見お笑いだけど、僕は本質を捉えたリサーチ活動だと思いました。そしてこんなことを会社の仕事の一部としてやっているキャノンという会社が羨ましく思いました。S水さんは自身でやっているバッドデザイン的な作品とキャノンでの仕事は条件が違うだけで、思考は同じだと言っていました。今回の話を聞いてようやく理解できた気がしました。そしてこの大事な事を忘れてしまっている多くのデザイナーにもっと聞いてもらいたいと思いました。
 
その後O田さんやS水さん達と飲み会へ。席が離れていて話が余り出来なかったのですが、トーク観客として来ていたK藤さんT田くんN山さんH水さん、K藤さんが誘ったらしいぽむ企画のH塚さん、建築ジャーナルのY崎さん、10+1のS藤さんK戸さん、btfのスタッフさんやO田さんの元教え子も参加していて、某建築家・某デザイナー批判や批評が飛び出し盛り上がっていました。飲みの席なので批判話はここでは控えておきます。
みんな業界の人達なので、なかなか諸問題について意識確認が出来ました。特に僕はあまり交流の少ない建築関係の人の方がはっきりものを言うのでもう少し突っ込んだ話をしてみたいと思いました。
| Design | 23:57 | comments(1) | - |
紙メディアの変化
 ちょっと遅くなりましたが、DTP WORLDで連載していたDesign=Socialが4月発売号を持って終了しました。というのも、DTP WORLD自体が休刊となったからです。
 
この雑誌が創刊した90年代後半は、web世代であっただろうし、webデザイナーももてはやされていたのを仕事をしていて感じていました。僕が会社員になった90年代始めはまだ、ほとんど写植の時代でしたが、95年くらいを境にDTPに以降していった。世の中のニーズからこの雑誌は生まれたのだろう。もはやDTPも成熟し、DTPをフックに雑誌を作っていく事が困難になってきたのかなあと思う。
 
そもそもこういった雑誌は立ち位置が難しい。DTP専門であれば単行本でも読めるし、毎月紹介する意味もあいまい。こういったことから数年前にリニューアルし、僕はその時から連載をはじめた。専門知識よりはもっとカルチャーに近い要素を重要視したのです。
 
前から何度かエントリーしているのですが、本来専門的分野はその周辺(カルチャー)に影響されて成り立っていると僕は思っています。しかし雑誌などではよく「カルチャーを扱うと広告がつかない」と聞きます。現状の雑誌は広告で成り立っているようなものですから、そういったカルチャーを排除し純粋専門分野に特化していくものを作らざるを得ません。結局、How toやカタログみたいになっていくんです。
アパレルなんかは特に顕著で、今期コレクションでデザイナーがどういったコンセプト、インスピレーションでデザインしたか(カルチャー的な部分)といった部分はいらないようで、限りなく多く服を載せる方が良かったりします。背景なんか必要無いんです。だから、お店にいってもショップスタッフは今期コレクションの背景を理解していないので「今期は明るめの色がおおいんです」なんていう見れば分るセールスしか出来ない事が多いです。本当は明るめになっているデザイナーの意図、それが民族回帰だったり、個人的な開眼だったりがあって成り立っていると思うのですが。せめてブランドだったら、本部から送られてきたからそれを売ってますではなくて、コンセプトを理解して欲しいと思うのですが。
 
ちょっと脱線してしまいましたが、日本ではカルチャーが人気ありません。僕は大量消費をさせるために仕組まれた愚民化政策のようにも感じてしまうのですが。
 
Design=Socialでも言い続けていた事ですが、ものは突然生まれてくることはありません。過去から続く文脈の中から環境や情勢をその時々のタイミングで加えて生まれてきます。
それを背景として別にものを売る時にうんちくをたれなくてもいいと思いますが、せめてそういったことが経済と関わっている事くらいは理解して欲しいと思います。あまりにも考えないことが多い。そんな気がするのです。
 
そしてここ最近出版業界が変わってきたように思います。
まず、雑誌というものの存在意義が薄れてきています。僕は本来雑誌は定期購読というようなものがベースにあると思っていて、定期購読させるには常に購読者の生活スタイルにあった内容が求められてきます。でも最近は売れる事(もしくは広告が入りそうな)を目論んだ特集が多く、今号は僕の興味に合うけど、次号は合わないなんてことが増えています。そうすると定期購読よりは単発で買った方がいいということになる。定期購読だと事前に部数も読めるし販売計画が立てられるのでロスが少なくなり、安定した購買者がいるということは雑誌のブランド化にもなってくると思うんです。
この曖昧さが雑誌離れを加速させた要因の一つになっていると思います。
 
もう一つはケータイ小説なんかのようなライトノベルの登場で単行本に対しての認識が変わってきたこともあります。
本来、単行本は長期的に保存価値がある内容を目的に発行される事が多かったと思いますが、最近ではとても短期的で消費する内容のものが多くなってきています。
例えば人気経済評論家の勝間和代なんかは、2ヶ月に1冊くらいのペースで新刊が登場します。内容をみると「こんどの0月に講演会がありますので是非参加してください」なんていう内容も盛り込まれている。0月過ぎたら賞味期限が過ぎた情報になってしまうのです。
しかし、単行本のいいところは雑誌よりも単価は高く、マーケットも狭くなる変わりによりコンセプトをはっきりさせたアプローチが出来るのと、広告収入に頼らないのでジャーナリズムがちゃんと打ち出せるところにあります。
 
僕は前にも、これから雑誌は2極化し、一方は情報に特化したフリーペーパー(ホットペッパーなど)ともう一方は単価が上がりより充実したコンセプトと内容、そして装丁などノプロダクトデザイン的なものになっていくと言いましたが、雑誌がムックを通り越して単行本的になってきている現状はこのプロダクトデザイン化への移行期なんだと感じています。
 
これからは広告収入に頼らず、よりコンセプチャルな内容でありながら、時代性を反映した(読まれる時期の限定した)単行本的雑誌が増えてくるように思います。

| business | 23:06 | comments(4) | - |
フォークアートと色

本日から代官山collex妻のイベントが始まりました。
メキシコを中心として各地のフォークアートや民芸品を展示販売するものです。
インフルエンザで渡航制限がなされているので、行く予定だった人にも必見です。
 
先日も妻の話をしましたが、メキシコに関しては僕なんかより相当詳しくて、刺繍や織り方、焼き物なんかを見るとどこの地方で作られているのか判別したり、作家名が出てきたりします。買い付けにもなかなか行けないんですが、それでもオアハカに住んでいる人をチヤパスに派遣したり、アメリカのギャラリーのおばちゃんに、グァテマラの危険地帯に行かせたり人脈を使い普通の観光では見つからないような品々を集めていました。
 
メキシコに行っても、お土産屋や露店ではよく日本でもラテン雑貨の店でみかけるようなものしか手に入れることが出来ません。いいものを探そうとすると田舎の村に行って作っている人から直接売ってもらったり、特注で作ってもらうしかありません。そういった村の人は結構マヤ語のような言葉を日常は使っているので、ガイドをつけなければならないこともあります。特にいいものは高地の車も行けないようなところにあることが多いので、アマチュア・バイヤーには相当ハードルが高いのです。
 
メキシコのフォークアートといえば、僕たち夫婦はアレキサンダー・ジラルドの影響がとても強いのですが、彼のコレクションを見ているとそのほとんどは民芸品と言えどもお土産物では無く、作家物が多いことが分ってきました。ジラルドも収集中は現地のガイドをつけて、内地まで足を運び、作家に直接オーダーしていたようです。上の写真のTree of Life(生命の樹)もAurelio Floresというジラルドも好んで収集していた作家のもので、NYなんかのギャラリーにたまに出てくる程度で、ほとんどはミュージアムに所蔵されている人間国宝レベルの作品です。
フォークアートはそのほとんどが模様や技法を世襲制で代々受け継がれるため、現在でも子孫が作っていることが多いです。(日本の民芸品なんかも同様)
好き嫌いはそれぞれあると思いますが、僕たちは1930年代〜60年代くらいに制作された先代の作品が好きで(ジラルドの集めていたものもその時期のものが多いということは、歴史的に見て一番クォリティが高いのか?)、ギャラリーの人に「息子の作品だったらあるよ」と言われても絶対それでは買う気になりません。
配色や装飾は子孫が作っている現行のものと変わらないのですが、全然違うのです。
どこが違うのか個人的に考えてみたんですが、1つは顔料など着色に使う絵具の成分では?と思います。時間経過退色もあるんですが、そもそも当時は今使っているような蛍光っぽい色は一切使っていません。もう1つは先代のものは造形があまい感じがします。ただし、着色などは曲がっていたりするけどとても細かい。それに比べ子孫のものは造形もバランスがとれ、きれいに仕上がっています。着色も丁寧ですが先代のような細かさはありません。
多分僕たちが先代の作品に惹かれるのは、そのあまさのような気がするのです。民藝のように、作品に邪念が入っていない、今のものは売るためにきれいに仕上げている感じがするのです。日本のメキシコ民芸の研究家でもあった利根山さんもやはりこの時期の作家を集めていたようです。
  
フォークアートで面白いのが(これは妻が気づいたのですが)寒い高地で作られた織物の方がクォリティが高いということです。暖かい地域だとユルい生活になるんでしょうね。もともと織物は生活必需品ですから寒い所の人は織密度が高くないと寒くてしょうがないですよね。織物はメキシコよりグァテマラやペルーの方が断然いいものがあります。
そして最近は化繊の安価な洋服なんかが流通していることもあって、質の高い織物はあまり作られていないようです。だから先代の作った織物は家宝みたいになっていたりします。金にものを言わせるというと悪いのですが、有名なフォークアートのギャラリーはこういった家庭を一軒一軒まわって、家宝を譲ってもらうのです。
 
こうやって収集していくうちに段々理解を深めていく僕たちですが、それによって色に関してとても興味を持つようになってきました。
日本のプロダクトをみても色をほとんど見かけません。あってもカラーバリエーションのための配色で、装飾的な意味ではありません。
 
先日、アラサーのデザイナー達と会った時、僕の経験のことを話しました。
僕はご存知の通り、ブルドーザーのように物や情報を一度集めます。次にその大量に集めた素材を選別し、核となる部分が見えるまで今度は削ぎ落とします。プロダクトデザインで言うと収集がリサーチの部分、削ぎ落としていくのがフォルムの構築です。最終的に削ぎ落としたものはコンセプトが強く、形あるものであれば機能美といえるでしょう。長い間僕はその導き方こそ強く伝達出来る物事に繋がると思っていました。
でも、フォークアートを深く知るにつれて人間そのものが本来持っている姿に気づきました。その一つが色でした。僕たちはよくナチュラル志向とかいうけど、その場合生成りや白なんかしか選んでこなかったように感じます。本来ナチュラルなのは自然にある色、つまり動植物、昆虫の色だってナチュラルなはずです。植物は季節によって色が変わるし、自然が豊かな、ジャングルに行けば行くほど多彩な色に囲まれています。古代から人はそういう自然に憧れ、畏れ、生活の中に色を取り込んできました。なんかそれが人間にとって自然な姿に感じるようになってきたのです。日本だってお祭りなんか見ても分るように色に囲まれています。
そして僕はその気づきから一端究極に削ぎ落とした物事にもう一度人間的な装飾や色を加えるようになりました。装飾は単なる飾りだけでなく、臭いや音など複合的な要素も入ります。僕自身もともとモダンデザインが好きなのですが、人間的な部分を我慢していたんだということも気づきました。
実際collexのカフェでお茶をしながら来客を見ていると、色とりどりのフォークアートに食い付くお客さんの表情が違います。多分それが本当の気持ちなのかなあと思ったりしました。 
またこのタイミングでO田さんが「補色」をテーマにしたイベントをやるというのも興味深かったです。実物を見ていないので大きな事は言えませんが、webで写真を見る限りFlavio Poliや倉俣史朗を超えた驚きはありませんでした。でも、若いデザイナーが色に関心を持った事で何か発展があるかもしれないという期待はしています。
 
色や装飾は理由があるものが多いので、扱いがとても難しいです。
ファッションでいうと分りやすいんですが、モノトーンだと誰が着てもそれなりにおしゃれに見えたりします。そこに色を加えると組み合わせが難しくなってきます。だからみんな小難しいことを考えないように決まった組み合わせをします。それはインテリアコーディネートも同じ事。○○スタイルにすればそれなりに見えるからです。
僕たちはそんな日常のものにも思考をしなくなりました。僕たちがより発展してくためにはやっぱり思考しなくてはなりません。最初のイベントの話から相当脱線しましたが僕はフォークアートやプリミティブアートからいろいろ勉強させられました。ピカソやゴーギャン、マレーヴィッチ、モディリアーニからイームズやソットサスもフォークアートのそんな一面に魅了されたのかも知れません。

| Culture | 23:35 | comments(8) | - |
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