メキシコを中心として各地のフォークアートや民芸品を展示販売するものです。
インフルエンザで渡航制限がなされているので、行く予定だった人にも必見です。
先日も妻の話をしましたが、メキシコに関しては僕なんかより相当詳しくて、刺繍や織り方、焼き物なんかを見るとどこの地方で作られているのか判別したり、作家名が出てきたりします。買い付けにもなかなか行けないんですが、それでも
オアハカに住んでいる人を
チヤパスに派遣したり、アメリカのギャラリーのおばちゃんに、
グァテマラの危険地帯に行かせたり人脈を使い普通の観光では見つからないような品々を集めていました。
メキシコに行っても、お土産屋や露店ではよく日本でもラテン雑貨の店でみかけるようなものしか手に入れることが出来ません。いいものを探そうとすると田舎の村に行って作っている人から直接売ってもらったり、特注で作ってもらうしかありません。そういった村の人は結構マヤ語のような言葉を日常は使っているので、ガイドをつけなければならないこともあります。特にいいものは高地の車も行けないようなところにあることが多いので、アマチュア・バイヤーには相当ハードルが高いのです。
メキシコのフォークアートといえば、僕たち夫婦は
アレキサンダー・ジラルドの影響がとても強いのですが、彼のコレクションを見ているとそのほとんどは民芸品と言えどもお土産物では無く、作家物が多いことが分ってきました。ジラルドも収集中は現地のガイドをつけて、内地まで足を運び、作家に直接オーダーしていたようです。上の写真のTree of Life(生命の樹)もAurelio Floresというジラルドも好んで収集していた作家のもので、NYなんかのギャラリーにたまに出てくる程度で、ほとんどはミュージアムに所蔵されている人間国宝レベルの作品です。
フォークアートはそのほとんどが模様や技法を世襲制で代々受け継がれるため、現在でも子孫が作っていることが多いです。(日本の民芸品なんかも同様)
好き嫌いはそれぞれあると思いますが、僕たちは1930年代〜60年代くらいに制作された先代の作品が好きで(ジラルドの集めていたものもその時期のものが多いということは、歴史的に見て一番クォリティが高いのか?)、ギャラリーの人に「息子の作品だったらあるよ」と言われても絶対それでは買う気になりません。
配色や装飾は子孫が作っている現行のものと変わらないのですが、全然違うのです。
どこが違うのか個人的に考えてみたんですが、1つは顔料など着色に使う絵具の成分では?と思います。時間経過退色もあるんですが、そもそも当時は今使っているような蛍光っぽい色は一切使っていません。もう1つは先代のものは造形があまい感じがします。ただし、着色などは曲がっていたりするけどとても細かい。それに比べ子孫のものは造形もバランスがとれ、きれいに仕上がっています。着色も丁寧ですが先代のような細かさはありません。
多分僕たちが先代の作品に惹かれるのは、そのあまさのような気がするのです。民藝のように、作品に邪念が入っていない、今のものは売るためにきれいに仕上げている感じがするのです。日本のメキシコ民芸の研究家でもあった
利根山さんもやはり
この時期の作家を集めていたようです。
フォークアートで面白いのが(これは妻が気づいたのですが)寒い高地で作られた織物の方がクォリティが高いということです。暖かい地域だとユルい生活になるんでしょうね。もともと織物は生活必需品ですから寒い所の人は織密度が高くないと寒くてしょうがないですよね。織物はメキシコよりグァテマラやペルーの方が断然いいものがあります。
そして最近は化繊の安価な洋服なんかが流通していることもあって、質の高い織物はあまり作られていないようです。だから先代の作った織物は家宝みたいになっていたりします。金にものを言わせるというと悪いのですが、有名なフォークアートのギャラリーはこういった家庭を一軒一軒まわって、家宝を譲ってもらうのです。
こうやって収集していくうちに段々理解を深めていく僕たちですが、それによって色に関してとても興味を持つようになってきました。
日本のプロダクトをみても色をほとんど見かけません。あってもカラーバリエーションのための配色で、装飾的な意味ではありません。
先日、
アラサーのデザイナー達と会った時、僕の経験のことを話しました。
僕はご存知の通り、ブルドーザーのように物や情報を一度集めます。次にその大量に集めた素材を選別し、核となる部分が見えるまで今度は削ぎ落とします。プロダクトデザインで言うと収集がリサーチの部分、削ぎ落としていくのがフォルムの構築です。最終的に削ぎ落としたものはコンセプトが強く、形あるものであれば機能美といえるでしょう。長い間僕はその導き方こそ強く伝達出来る物事に繋がると思っていました。
でも、フォークアートを深く知るにつれて人間そのものが本来持っている姿に気づきました。その一つが色でした。僕たちはよくナチュラル志向とかいうけど、その場合生成りや白なんかしか選んでこなかったように感じます。本来ナチュラルなのは自然にある色、つまり動植物、昆虫の色だってナチュラルなはずです。植物は季節によって色が変わるし、自然が豊かな、ジャングルに行けば行くほど多彩な色に囲まれています。古代から人はそういう自然に憧れ、畏れ、生活の中に色を取り込んできました。なんかそれが人間にとって自然な姿に感じるようになってきたのです。日本だってお祭りなんか見ても分るように色に囲まれています。
そして僕はその気づきから一端究極に削ぎ落とした物事にもう一度人間的な装飾や色を加えるようになりました。装飾は単なる飾りだけでなく、臭いや音など複合的な要素も入ります。僕自身もともとモダンデザインが好きなのですが、人間的な部分を我慢していたんだということも気づきました。
実際collexのカフェでお茶をしながら来客を見ていると、色とりどりのフォークアートに食い付くお客さんの表情が違います。多分それが本当の気持ちなのかなあと思ったりしました。
またこのタイミングで
O田さんが「
補色」をテーマにしたイベントをやるというのも興味深かったです。実物を見ていないので大きな事は言えませんが、webで写真を見る限り
Flavio Poliや倉俣史朗を超えた驚きはありませんでした。でも、若いデザイナーが色に関心を持った事で何か発展があるかもしれないという期待はしています。
色や装飾は理由があるものが多いので、扱いがとても難しいです。
ファッションでいうと分りやすいんですが、モノトーンだと誰が着てもそれなりにおしゃれに見えたりします。そこに色を加えると組み合わせが難しくなってきます。だからみんな小難しいことを考えないように決まった組み合わせをします。それはインテリアコーディネートも同じ事。○○スタイルにすればそれなりに見えるからです。
僕たちはそんな日常のものにも思考をしなくなりました。僕たちがより発展してくためにはやっぱり思考しなくてはなりません。最初のイベントの話から相当脱線しましたが僕はフォークアートやプリミティブアートからいろいろ勉強させられました。ピカソやゴーギャン、マレーヴィッチ、モディリアーニからイームズやソットサスもフォークアートのそんな一面に魅了されたのかも知れません。