どなたの献本か不明ですがHFさんの半世紀を綴った「
丘の上のパンク」をいただきました。
思ったよりの人気で初版は全国の書店で品薄になっていたようです。
僕たち世代を語る上できってもきれない人ですし、部分的に僕も接点を持っているので、パラパラと読んでいると僕の若い頃の思い出が蘇ってくるようでした。
彼をはじめて見たのは、確か1986,7年くらいだったと思う。場所は新宿の
ツバキハウスです。毎週ロンドンナイトという伝説的なイベントがあって、
憲章さんのサブとしてF原氏はDJをやっていた。そんなに有名人ではなかったと思ったけど既にPOPEYEのモノクロページで連載を持っていたので知っていました。その後すぐに明治通りのDEP'Tの近くにあったモンクベリーズでも見た事があった。モンクベリーズはOLIVEで活躍する外人モデルがいっぱい居たのを覚えてます。
僕が上京した頃には彼のDJを目当てに遊びに行ったりしました。彼の選曲は同時代のDJと少し違っていました。HIP HOPもファンクも
アシッド・ジャズや
デトロイト・テクノなど幅広く、余り知らなかった世界のクラブシーンの最先端だった。生
スクラッチっていうのも彼のDJで初めて知ったのです。
その頃は飯倉片町にあった「プレステージ」というクラブでDJ4人による“ジャングルジム”というのをやってました。そのあと「ピカソ」に移り、新宿の花園神社にあった「第三倉庫」と後の「ミロス」に引き継がれました。ミロスの頃にはF原氏の影武者として
NIGOがDJをやってましたね。
こういう所に行っているとファッションもそれ風になってくる。80年代末〜90年代初頭は竹下通りの
ムラサキスポーツに行っては
STUSSY(当時は直営店が無く、スケボーというよりはサーフメーカー色が強かった)を入荷日を嗅ぎ分けていち早くいい物を手に入れたり(大抵そういう日はF原氏もいた)、原宿のア・ストア・ロボットで
ブルース・ウェバーのTシャツを買ったり、キャッツストリートのさらに路地にあったロンディスで日本未入荷だったラルフローレンのパッチワーク・ネルやブルックス・ブラザーズのカジュアルラインのカットソー、日本に上陸前のGAPやアバクロ、アランがやっていたアナーキック・アジャストメントやF原氏のGOODENOUGH、ロンドンのインセインなど良く買いました。バイヤーS寄氏(後にアクアガールのバイヤーにハンティング)のセレクトが冴え渡っていました。その後明治通り、並木橋よりのビルに移ってEMという名前に変わったけど、その頃にはあまり行かなくなった。たまに行くと
ムラジュンが店番をやってました。
90年代前半位から僕はHF氏の世界から離れていったので、渋谷クアトロの地下にあった
ア・ストア・ロボットで
JONIOが
アンダーカヴァーを片隅で売ってもらっていた時代や、原宿でNIGOとJONIOが開いたNOWEREまでは知っていたけれども、
APEや
NEIGHBORHOODや
hectic、
AFFAとかいわゆる裏原というものが生まれた頃には存在自体は知っていたけど、お店にいく事はありませんでした。
90年代の終わり頃、maxsellの仕事を僕がしていて、ちょうどWネームなんてのが流行り出していた時だったので、彼と仕事をすることにしました。MP3プレーヤーのようなポータブルプレーヤーで、GOODENOUGH別注バージョンとして本体にロゴが入り、HF氏新作楽曲の入ったスマートメディア、
HEADPORTERのオリジナルストラップと、HEADPORTERストラップ型簡易ケース、ウェットスーツ素材で作ったHEADPORTERの専用ケースを作り、SOPHの上にあったスティルシークエンス他、GOODENOUGH取扱店で売られました。
この特殊な売り方とオリジナルアイテムはかなり評判が高く、第2弾はHF氏と
T城剛氏の2人と数種類の専用バッグをHEADPORTERで作りました。
そんなこんなで10代の頃は音楽やファッションに憧れ、20代の頃は一緒に仕事をしたのです。僕もすっかり自分の立ち位置が出来てきて、ここ最近はご無沙汰してるんですが、
K原さん絡みで何かやるそうなので、そっちも楽しみです。
というか僕の半世記に半分くらいリンクして結構楽しめました。
僕が彼に思ったのは、自分をうまくプロデュースしている点。20代くらい仕込んで、30代以降、表舞台のいいところにチョコチョコ出ながら、企業などのプロジェクトやブレーンにうまく入り込み、消費されないカリスマ性を数十年も持ち続けています。自らをキャラクター化し頻繁に登場する事でブランド価値を高めるNIGOとはまた違ったやり方で、どちらもマネージメントとしてとても参考になります。