このところプロデューサーとしてプロダクトデザイナーと接する機会が多いです。
再三、デザイナー達と話したり、伝えているつもりなのですが、あがってくるラフを見るとイメージ(方向的な)とのギャップを感じます。
それは何なのか? もちろん、僕の伝え方が悪いというところもあるかと思います。
ただ、僕自身が感じるのはデザイナー個々の「譲れない」何かなのです。
現在やりとりしている10人ほどのデザイナー。若手と呼ばれる20代後半から30代前半がほとんどです。そのほぼ全員が最近の雑誌で「注目すべき若手00人」なんかとして紹介されています。
注目はされていますが、実績はまだまだありません。それ故に「やりたいこと」がはっきりしています。その多くの「譲れない」何かが、デザイナーとしてのアイデンティティの部分です。
今回のプロジェクトで考えている僕の方向性はどちらかというとMUJIのようなもの。もちろんMUJIと違い、デザイナーの名前は出すのですが、そういったところでないある意味広い層に受け入れられ、こういうのが欲しかったというユーザーのツボにハマるもの、デザインを意識させないものを希望しています。
しかしデザイナー達が求めているのは「デザインしたもの」なのです。自分の個性を主張できるような、インテリアショップに置かれているようなものです。
僕が感じているのはデザイン意識の無いデザインこそ生活の中に入り込んでいくと思います。信号や交通標識なんかによって事故が起らず助かっていますが、それをデザインとはあまり言いません。ダイエットをしてスリムになってモテることもデザインだけどデザインと言う人はいません。そのくらい日常的な中にデザインが入り込んでこそマイノリティからの解放なんだと思うんです。僕たちがいくら「デザインを良くしよう!」なんて言ったって多くの人は誰も聞いてはいません。
ある人が「デザインで彼氏を選ぶ」というフレーズに過敏に反応していましたが、あえてデザインって言葉を出しただけで、誰だってデザイン(本来設計と言う意味なので、容姿や、収入、人生設計もデザインのうち)を重要視して選んでいるんだと思うんですけど。
僕は当初、若いデザイナーは実績は無いけどよりユーザーの気持ちを理解できる(いい意味で素人な)存在として「いいものを作ってくれる」と期待していました。もちろん今も変わっていません。しかし、実際デザイナー達は「認めてもらいたい」ゆえにトリッキーになりがちです。デザインで認めてもらいたいという意識が強いのか、客観的に考えるとあまり必要でなかったり、欲しい人を限定してしまう結果になっています。
先日
SLOWのHさんと話した時にデザイナーからアートディレクターのスタンスに移って初めて客観性に気づき、デザインという中で今まで考えすぎていたことを理解したそうです。やはりデザインの中に入ってしまうと俯瞰で見れなくなるのでしょうか?逆にベテランデザイナーの方が素人目で見れるのでしょうか?
また、違う観点では「理想的イメージを強く持っている」ということもあります。プレゼンシートにはポエティックな解説が入れられています。そのポエティックな感じが現実に結びつける想像性だったらいいのですが、内向的なものが多く、非現実的であったり、そもそも自分だけが酔っている感じも見受けられます。コンセプトは必要でしょうが、商品が一人歩きした時にユーザーが感じる物でなければならないのではないでしょうか? それはまさにメーカー側が「定番品」と言っているようなものです。定番になるかどうかはユーザーが決める事です。
ここんところ、そういうやりとりをしている中でつくづくMUJIの凄さを感じずにはいられません。また深澤さんの立ち位置の取り方(ある時はアーティスト的に、ある時は有名デザイナーとして深澤デザインならではのフォルムを、ある時はアノニマスとして作家性を隠すことができる)などプロジェクトによって切り分けられる能力は、日本を代表するデザイナーと言われるだけのことはあるなあーと思います。
若いデザイナーにこんな事を要求するのは難しいのかもしれませんが、本当にデザイナーとしてやっていきたいならば、素人に戻って何が必要か? そのためにデザインがどう関われるのか? そして、何のためにデザインが必要か?を客観的に考えることも今後必要になってくるでしょう。
このことを考えるのは仕事の中だけではありません。特に建築家の話を聞くと、とてもやりたい事が理解できて、そうあるべきなんだろうなあと思う事が多いのですが、いざ作ったものを見てみると「こういうことなの?」とイメージのギャップを感じる事が多々あります。例えば地域の人達とのコミュニティづくりのために、内外の関係性があいまいになるガラス壁にするとか。空間は解放されるのだろうけどそれで心は解放されたことになるのだろうか?人とふれあいたい気持ちを持っている人であれば、どんな厚い壁があってもふれあうだろうし、僕は気持ちの中に有る公的な部分と私的な部分のバランスが重要だと思っているんですが、何でもかんでも公的にすることもどうかなと(例えば最近なんでガラス張りのトイレが多いのかとか)素人目線では感じてしまうのです。考え方は公的なのに作品は私的な感じ。それでも僕がアート品を買うように、施主が満足すればそれでいいんですかねー。
ここのところ若いデザイナー達と仕事をやっていて素人目線を持つ重要性をとても感じます。デザインなんて言葉が無くなる日が来るのでしょうか?(そのときはじめてデザインが日常のものになる気がします)