僕はよく自分自身が思っている事と意見が違う人に、突っ込んだ質問をすることがあります。僕自身、別に意地悪をしているつもりも無く、ネガティブに考えている訳でもなく、湧き上がる好奇心の中に「この人はどうして自分と考えが違うんだろう?」という気持ちが出て来てしまうからです。
結論から言えば、僕はその相手を否定しているわけではないのです。相手がその質問に答えて、僕自身が理解できれば「なるほど。こういう考えもあるんだな」と思うし、さらには「そう言われれば、自分の考えていた事こそ間違っていた」と気づくかもしれません。
でも、結構その突っ込んだ質問が相手に悪くとられてしまうことが多いんです。
例えば同じ映画を見て、相手が「凄く良かった!」と言い、僕は「気持ちは分るけど、あまり良くはなかった」と思った時、まず僕は「どこが、どう良かったのか?」って聞いてみたくなる。別に僕は純粋に相手が良かったと思うんだったら、その気持ちはおかしいよ!とは言えない。だって思うんだったしょうがないからです。でも、その問いに答えられない人もいる。つまり、僕はそれぞれ自分たちの考えを議論したいと思っているだけなのだけれど、議論というものに馴れていない日本人だからか、対話として成立しないのです。
そういう突っ込んだ議論をしようとすると「あなたは何故そんな悲観的なのか?」とかと思われてしまう。
でも一方で、そうやって答えられない人を探っていくと「映画評論家がいいと言っていた」とか「皆がいいと言っている」とか、本当は自分の気持ちじゃない事が多いと感じる時があります。別にそれが悪い訳じゃあ無いけど、自分の気持ちにそぐわないと意味が無いんじゃないかと思うんです。
本当にいいと思っているんだったら信念といったら大げさだけど、そういった揺るぎない相手の気持ちを知りたいというのが、僕の目的だったりするのです。
僕は意見が違うからとか考えが違うからこの人は嫌だとか一緒に仕事をしたくないとは思いません。そこのすみ分けが出来ない人が、ちょっと問題を起こした人に対し人格否定までしてしまうような気がします。同様に、僕の意見に同調してくる人も良くいます。でも、その人に対し少し疑ってかかっている部分もあります。
僕も自分自身を疑うときが良くあります。だから何の疑いも無く僕の意見に賛同してくる人はどこか信じられないときがあります。(もちろん、誰も信じていない訳ではありません。感覚なんですが、この人は僕の意見に同調しているだけか、本当に相手自身も同じ考えを持っている人なのか嗅ぎ取るような部分があります)
僕の意見と同じでも、違っていても、僕は多分質問します。本当に自分自身の考えかということを。
その人それぞれ自分自身の考え方を持っていれば、僕は意見が違ってもいいと感じます。世の中自分の考えに合わないと、ダメだとか優劣を付けるけど、僕自身は好きではないけど、世の中で凄いとかいいよなあと思う事はいっぱいあるから、認めてはいるわけで、僕が質問する事はネガティブな意味で言っている訳ではないのです。
ここのところいろんな話をすると、出てくるのが「言葉の力」です。意見が同じでも、違っていても、正しくても、間違っていても、その人が本気で考えて出て来た言葉は強いです。そして説得力がある。
僕はクライアントと話すときも常に自分の言葉で話すようにしています。たとえ意見が違っていても。それも今年のテーマである「リアル」なのだと思うんです。