今の僕たちの生活があるのは、先人もしくは自分たちが未来をよりよくしようと思ったからで、過去の判断は必然として起っているはず。だから今を後悔して「あの頃は良かった」その当時に戻っても、大抵は同じ事(今に繋がる選択)を繰り返すだろうと思う。
大政奉還もまた必然的な政治転換だったんだろうと思う。そのきっかけとなる尊王攘夷を推進した井伊直弼は当時の保守派に敵視された事は理解できる。しかし、その後の歴史の中においても悪人としてみられているのは不思議だ。これは過去の古き良き時代にノスタルジーを持つ人々が今生きる時代に憂いでいることのためにスケープゴートを見つけているのだと思う(江戸の古き良き時代から開国し、文明開化の悪しき時代になったのは井伊直弼のせいだ。と)。しかし、本当は過去より今の方がよりよくなっているはずだし、何より皆が望んだから変わったに違いない。この矛盾点は僕たちが生きる今も同じなのだと思う。物質と情報にかけては必要以上に豊かになったが、何も無かったけど昔は良かったなーと、今を憂う人が多いだろう。多分そういう人がいいと思っている昔に戻ったら我慢できないと思う。20年ほど前、文明に逆行し、心の豊かさを求めて脱サラしてペンションオーナーになっていった人達は今どうしているだろう。過去のように戻るには大きなリスクを覚悟する必要がある。(ムラ社会故に起きた
津山事件のような人情の裏には閉鎖されたコミュニティもあるし、今と比べ物にならないほどの犯罪率、食べる事さえ困っていた貧困、教育の未発達など時代の裏をちゃんと見る事)そんな決断を迫られたら、やっぱり今の方がいいと思うかもしれない。
僕は正直、
O田さんの企画した
「日本史」展にそれほど期待はしていなかったし、
S水さんの作品も2点と事前に聞いていたので、たいした事は無いと思ってました。しかし、100%デザインの帰りに「ついで」に寄ったつもりの当展示が、早くも今回のデザインウィークの個人的ベストワンになりそうです。もしかしたら、100%デザインの前に見たらもう少し印象も変わっていたかもしれないけど、それもまた必然なのかと思う。
この不景気の最中、今回のデザインウィークでのイベントは全体的にとても堅実で、サスティナブルやエコ、フェアトレードなどがベースになっている。それはそれで実の有る取引に結びつきとてもいい事だと思う。でも個人的には物足りない、暗い時代だからこそバカなものが見たい!
そんな展示会を見た帰りの「日本史」展はひときわおバカで衝撃的だった。それにただのバカじゃあなかった。
より良い今を選択した(未来は今よりもっとよくしたいと思った)はずなのに過去へのノスタルジーに浸る矛盾はデザインにおいても共通の認識がある。そして教科書の中でしか知る事のなかった井伊直弼の時代と同じ感覚を、僕たちは今感じていて、それで何か歴史上の物事(日本史)がリアルにみえてくる。
さらに展示されている鏡の作品「井伊直弼(大)」に写る自分に対し、今この瞬間を客観的に感じてみる。「自分は矛盾に生きていないか」と。
髷は切り取られ、白い台座の上に置かれた。武士の時代から既に新しい文明への選択をしている。でも皆、髷の時代を求める。巨大になった過去へのノスタルジー「髷貯金箱」を振り返ってみても、そこには空虚な(中身がからっぽな)安っぽさ(プラスチックの髷)があるだけなのです。
この作品を見て、今日見てきた展示会を振り返ってみると、虚と実が入り交じり矛盾と空虚に満ちあふれていないか?と、何か今やっているデザインウィーク全体にテーゼを投げかけている気がしてしまいました。そして、白いこのギャラリーの中に、居心地悪くぽつっと置かれている作品を前にして傍観者はまるで自戒を求められているかのように困惑し、あの間の悪さはそれを計算しているのだと感じてしまう。
僕たちは今とこれからを生きるしか無い。悪い事が起ってもそれはそれで今考えうる正しい選択なんだと思う。斬り落とされ未来へとスタートした井伊の髷はそう語りかけているように思えました。
豊かさを求めるが故に自ら消費社会を選択した産業と社会に対し「昔の方が良かった」と今を否定する僕たちへの批判的なものでありながら、今や未来のために新しいものを生み出す意味の肯定でもあると、S水さんの置かれているスタンスを理解できました。
そして、ここまで考えさせるのはやっぱり作品の仕上がり完成度の高さにもあると思います。もの作りの姿勢をとても感じます。作品が陳腐だったら、それこそそのもの自体が空虚になってしまうからです。