アートディレクター、A木克憲さんのお店Shop btfで僕のトークショーを開催しました。パワポ用の写真データを100点ほど集め、幼少時代からの僕の遍歴を紹介。何も考えず100点も集めてしまったため、1点につきコメントが1分少々。結局写真の説明で終わってしまったように思っています。点数を少なくしてももう少し話をした方が良かったかと反省しています。また、小さい頃からやっているスクラップも自宅にあるものしか紹介出来ませんでした。もっと面白いものがあったと思うんですが、それはまた別の機会に。
ということで、トークショーでしゃべったこととその補足をちょっと紹介しようと思います。
僕はこどもの頃から好奇心が強く、今の推進力もそれがあるからだと思っています。
幼稚園のお絵描きの時間にその頃見ていた「
寺内貫太郎一家」を描いたり(ただ登場人物を描くだけではなくて、その上には脚本や演出などのスタッフクレジットを入れていた)、もう少し子供らしい絵だったら、恐竜とか(これもただ知っている恐竜を描くのではなくて、恐竜の生息時期と場所を正確に設定して)、深海魚とか、結局の所見た事も無いものに非常に興味を持っていたのです。知りたいがために幼稚園児では見ないような学術書などを読みあさったりもしました。先生に「もう少し子供っぽい絵を描きなさい」と言われショックだった記憶があります。小学校のときもそうだったけど、学校っていうのは(社会もかもしれないけど)個人の持つ好奇心を潰していわゆる「フツウ」の子を育てるんだなあと当時からリアルに感じてました。唯一助かったのは家族が拒否反応を示さなかった事。認めていたわけではなかっただろうけど、放って置かれたのは僕には都合が良かった。
あと、親にはいろいろ買ってもらえました。顕微鏡や天体望遠鏡、解剖用の器具など。見た事も無いものを見るのが僕の好奇心。目には見えない微生物や細胞、宇宙、生物の内蔵など、結局好奇心を満たすための道具を提供してもらいました。この頃親は僕の将来を科学者か医者になるものだと信じていました。
またこの頃ですが、ビートルズのLet it beを聞いていて、同じ曲なのにアルバムとシングルで違うメロディだということに気がつきます。何故? そこで好奇心がはたらき、調べていくうちにアルバムは
フィル・スペクター、シングルは
ジョージ・マーティンがプロデューサーで、その人のアレンジによって音が変わるという事を知りました。さらに、もともとLet it beというアルバムはGet Backというアルバムでリリースされる予定で、アルバムの内容も曲のアレンジも全く違うという事を知ります。そしてそれには人間関係のどろどろした深い訳があった。多くの人がそうだと思うんですが、ちょっと興味を持った事が数珠つなぎのように発見が次々に繋がっていくと凄く楽しくなります。その感覚が楽しくて、次から次へと興味を持っては掘り下げていくという作業の楽しさをやめられなくなりました。
僕はこの気持ちをとても大事だと思っていて、多分人間が「学びたい」という根源的な欲求はこんな事から起るんだと思います。今の教育の中に忘れられてしまっているもの。今の勉強も角度を変えるだけで、興味をそそるようになると思うんですが。
僕にとって見た事も無い恐竜や深海で生きる生物に興味を持つように、表では見えない関係者や人間関係も同じレベルで好奇心を刺激したのです。
こうやってスタッフクレジットを注意深く見るようになるのですが、例えばはっぴいえんどのラストアルバム「
HAPPY END」のプロデューサーが
ヴァン・ダイク・パークスだったことからビーチ・ボーイズの幻のアルバム「
SMILE」のプロデューサーをする予定だった事を知ったり、ビートルズの俗に「
ホワイトアルバム」のプロデューサーが
クリス・トーマスで、
サディスティック・ミカ・バンドの伝説的なアルバム「
黒船」も彼のプロデュースというリンクが出来たり。このホワイトアルバムを教典として活動する
チャールズ・マンソン率いるカルト宗教団体「ファミリー」の存在を知ったり、マンソンの信者の一人にビーチ・ボーイズの
デニス・ウィルソンがいた事を知ったり、知れば知るほど芋づる式に新たな発見があり、しかもそのツルが他で掘り起こした芋と繋がっている事を知っていくにつれ、興味はどんどん拡張していくのでした。小学校の頃に
フルクサスに興味を持ったのも、ジョン・レノンの奥さんのオノ・ヨーコだったし、それで
ヨセフ・ボイスを知って、ボイスから
シュタイナーを知るといったように、音楽文脈だけでなく音楽にも美術や思想やらが関わっている事を子供ながら漠然と理解するようになりました。
音楽だけですが、日本のバンドはどういうメンバーで構成され、その後どういうバンドに移ったり、ソロになったり、どういったセッションがあったのかということを幼少の頃から相関図にまとめていたのですが、15年ほど前に雑誌で紹介したのが下記の写真です。
相関図は前ページにもあるので、この写真は一部です。
デザインに興味を持ち始めたのもその頃でした。
最初は
アメリカン・デコ。カクカクした変わった形状に最初は興味を持って、例のごとくそれらを作った作家を知りたくなりました。
ドナルド・デスキー、
ウォルター・ドーウィン・ティーグ、
レイモンド・ローウィなどなど。その辺から始まって、デザイナーの生み出した作品を買うようになりました。とりあえずデザイナーの作品を時系列に買ってみる。すると、ある時期に急に作風が変わる事があったりします。そこでまた好奇心が沸き上がり、何故?となるのです。調べていくとその時期に親が死んでいたり、パートナーが変わっていたり、戦争が起ったりなど社会的な要因が密接に関わっている事を知ります。それで、デザインは偶然生まれるものでなく、作家が持っている(無意識にしても)思想や宗教観、そして社会的な経験が必然的に関わっているということを知りました。最近ではかなり物事を引いて見れるようになったのですが、引いてみるとその社会的な要因は単なる作家個人だけでもデザインの世界だけでもなく、音楽も建築も、映画も、文学も、教育も、経済もあらゆることが同じ時間のバイオリズムに乗って動いていくのが凄く分かってきました。そして、引けば引くほど、例えば一人のデザイナーが現在行っている行動は、400年前のある出来事が繋がっていたりと、どこが火種になったのかも知る事が出来るようになってきました。
ほとんどこういう全ての物事は人間が関わっています。人は興味を持ったり、飽きたりするように、歴史も同じようなバイオリズムがあります。可能な限りのデータを集めそのバイオリズムを埋めていくと、過去にどのようなペースでグラフの波が上下しているのかが分かってきます。過去のペースを見れば、未来もどうやって上下していくのか分かります。これがわかれば、何が求められ、何が不要になっていくかを想定して物事をおこなっていく事が出来ると考えています。
この長い文章でお気づきだと思いますが、僕はコレクションする事に興味があるわけでなく、この考えの仮説と検証の作業のための資料収集作業なのです。
文章だけではつまらないのでちょっと画像でご紹介
子供の頃、アメリカの50年代文化にはまった事が会って、その頃イームズなんかも買ったのですが、50年代といえばパステルカラー。
ペパーミント・グリーンの綺麗なガラス食器に興味を持ちました。そのペパーミント・グリーンことをジェダイなんていう呼び方をしていたんですが、
ファイアー・キングというブランドを中心に作られていたこのジェダイカラーの食器を集めました。上の写真はその頃集めるためのリスト。当時はコレクターズブックなんて存在していなかったから、自分で当時の雑誌を調べて、それに載っている写真を書き写していました。確か小学3年生くらいです。
アメリカ、そして50年代への憧れはおもちゃや企業のノベルティなんかにも向けられました。当時からずっとやっているスクラップです。雑誌なんかでそういう記事を見つけては切り抜いてスクラップブックに貼り、自分で英語のコメントをいれていました。スクラップブックも日本のではなく、50年代のアメリカの本物のブックに貼っています。
古着が好きだった事は今までも何度か書いてきましたが、これもやっぱり小学校時代からずっとやってきたスクラップブックです。これも雑誌などの切り抜きを中心に自分でキャプションを付け直してまとめているものです。
同様の資料として各洋服の特徴的なディテールを手描きで説明したノートです。多分僕は幼稚園の頃からお絵描きにスタッフクレジットを入れたりしてきたのは自己満足というよりは、誰かに見せたいという気持ちがあったんだろうと思います。こうやって、自分の頭の中に入っている情報をあえてまとめるのも、自己流に編集し直して、読んでもらいたいからだと思います。僕もその気持ちに気づかない頃から編集遊びみたいなことをやっていたということでしょうね。
別のノートですが、これはジャケットなどに付けられた織りネーム(タグ)だけのディテールをまとめたものです。
これも別なノート。こちらはアメリカ空軍(厳密にいうと陸軍航空隊)のフライトジャケットを描いたもの。高校の頃に描いたものなので、上のイラストより格段に上手くなっています。
ということでそんな昔の僕の部屋はこんな感じでした。
小学5、6年生の時に担任になった先生は学校としての宿題を出さなかったのですが、勉強でも何でも自分の好きな事を毎日ノートにまとめて提出しなさいという人でした。
僕が算数や国語をそれでやるわけは無く、一番多かったのはスニーカーのイラストでした。スポーツ用品店に行くとアディダスやらアシックス(オニヅカ)やらのポスターが貼ってあって、それには様々な競技別のシューズ写真がずらっと並んでいました。知らない競技の知らないシューズはこの好奇心多い少年には刺激的でした。それで、そのポスターにも載っていないシューズをアメリカの雑誌などを見ては描いていたんです。その頃のノートはもう無いんですが、小学校以降もずっとこの作業は変わらずやっていて、下の写真は高校生の頃に描いたものです。
この小学校の頃のノートにはスニーカーリスト以外に、学級会の劇でやるための(
丸山 昇一や
市川森一を意識したような)脚本を書いたり、
スネークマンショーをパロったような下ネタの時はさすがに先生に怒られました。(ただし、その頃加入していたミニバス(子供バスケットボール)のクリスマスパーティで披露)
小学校時代といえば、友達のうちの畑で縄文時代の石器やら土器やらが大量に出てきて、学校の授業で縄文時代の勉強をする時に、30kgの米を入れる袋に5袋それを詰めて持っていきました。その後遺跡発掘のための保存地域になってしまったのでこんな事出来ませんが。。。
トークショーでも話しましたが、僕はそんなに凄い事をやっているとは思っていません。多分誰でもできることをやってきたと思います。それを継続するかしないかの違いだと思っています。
例として
ホットペッパーを挙げました。
ホットペッパーは駅前などでタダで配られている飲食店のクーポン集。あるエリアである期間だけ有効なクーポン券をカタログ化したものなので、その時期が過ぎてしまうとただのゴミになってしまう。でも、毎回配られるこの冊子を20年間とっておいたらどうなるか? もちろんクーポンは使えませんが、その20年間、そのエリアでどういうお店が多かったのか(流行っていたのか)どんな店があったのかを知るための資料という違う価値が生まれるのです。継続してある一定のところまで到達してやっと資料性が生まれるもの。ほとんどの人は2次的な価値に気づかずに、気づいたとしても20年間継続していく事は大変です。そうやって淘汰されていく。僕がやってきたことはそんなことに近いのです。大変だけどやろうと思えば誰だって出来ることなんです。
写真資料をまとめていたら2000年位を境に劇的にメディア露出と雑誌の仕事が増えてきました。多分この辺でゴミが価値ある資料に変わってきたんでしょうね。
僕のスクラップなんかの資料で、日の目を浴びたのは5%くらいに過ぎません。あと95%(でも今もいろいろ集めているからもっと%は増えそう)はこれから世の中に出していきます。皆さん期待しててください。