今月のSTUDIO VOICEは本特集。本と言っても、ミニコミ誌や
リトルプレス、自費出版や
ジンなど少部数で発行しているものが中心です。ウチも出版コードをとっていないし、取次業者を介していないので仲間に入れてもらいたいところですが、大手のように部数が多いものもあるので、リトルプレスとはいえないかな? 今回の特集でコラムを書いています。それも、決してリトルプレスでは無いのですが、一般の雑誌よりは部数は少ないですね。そこで、今時のガーリー雑誌を紹介しました。なぜ、この数年ガーリー路線なのか?ということを社会状況から分析してます。ご興味ある方はご覧ください。
僕はモノ心ついた頃からジンやフリーペーパーなど少部数の発行物を集めてきました。古くは幼稚園くらいの頃の
ベ平連や
内ゲバの会報誌、70年代半ばに多かった新宿なんかのタウンマップ、その頃の
オンサンデーズのフリーぺーパーからオウム真理教のバジラヤーナサッチャ、京都時代から鎌倉までの
カフェ・ディモンシュや雑貨屋Sixのフリペなどなど、数万冊のコレクションにおよんでいます。
他にも、アメリカのジンは中学生の頃から結構買っていて、
Beach Boysとか
デビッド・クローネンバーグや
ラス・メイヤー、
ハーシェル・ゴードン・ルイス、
ロジャー・コーマンのファンジンとか、珍しいものだと
ジョン・ウェイン・ゲイシーなんかのものもありました。イタリアの
ゴブリンのファンジンってのも珍しいかもしれませんね。
そんな僕の収集人生の中でも、1990年代は非常に充実しています。推測なんですが、それ以前の雑誌は一部を除いてまだ発行部数も少なかったので、一般雑誌自体がサブカル的意味を持ったものが多かった事(バブル以降出版が変化してきた)。マックなどパソコンの一般導入やコピーの普及で個人で簡単にフリーペーパーなどが作れるようになった事。それと、個人の自己主張が高まってきた事が考えられます。ただ、この頃のものは一部のものを除き、自己主張ばかり掲げているのが多く、タダでも持って帰りたく無いようなクォリティのものばかりでした。一方で前述のカフェ・ディモンシュのフリペなんかは
O本さんやFPMの
T中さん、M&COの
M浦さんらが関わっていて、それが後の「relax」へと繋がっていきました。
2000年代に入ると極端に減っていきました。まず意味の無い自己主張は淘汰されていったのですが、最大の理由はブログという新しい自己主張の場が出来たことでしょう。完成度の高いフリペはより成熟し、ジンやリトルプレスのような買ってまで読んでみたくなるような出版物へ移行しました。同時期に
ユトレヒトのような通常の書店のような流通に依存しないセレクト本屋が次々に生まれ、ウチのように出版社や取次に依存しない会社が本を発行するようになってきました。
ジンなどの出版物はなにも日本で話題になっている訳でなく、スイスや北欧、南米といった世界中で沸き起こっているのです。僕はその現象も今回のコラムで触れた社会状況が絡んでいるように思います。大都市を地方にコピぺするような地域崩壊型の都市計画やインターネットによる世界のフラット化は豊かさの代償に地域文化や民族性などを軽視しています。この社会のフラット化に対する精神的な反抗が北欧ブームや地方の工芸品を好む「ほっこり系」にも繋がります。ヨーロッパではエスニックが盛り上がっています。ヨーロッパのフォークロアは植民地政策時代のアフリカ、アジア、南米なんです。そうでなくても、ローマやミラノの有名セレクトショップがディレクションしてシチリアあたりの田舎工芸品をおしゃれにしたり、旅行雑誌でもスペインとフランスの間の田舎町であるバスク地方がもてはやされています。
こういった精神的欲求が個人出版やリトルプレスの動きにも関わっていると思います。世界の地産が、大量生産の脅威である中国に対するカウンターであり、出版も大手の広告至上主義に対するカウンターでもありますが、当のパブリッシャーはもっとユルい感じで考えているでしょう。どちらかというと、以前触れた内省的建築のように、自己に向かっている感じが強いと思います。分かる人だけが分かる小さな文化圏を作っているように思います。
いずれ内省から解放された時『本を捨てよ町へ出よう』となるのでしょうか?
その時は、本当の本の終わりがやってくるのでしょうか?