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インクルーシブ・デザインとエクスクルーシブ・デザイン
 最近僕はクドいほど社会とデザインの繋がりについて話したり、書いたりしています。
でも誤解しないでいただきたいのは、僕自身はエクスクルーシブ・デザインを尊重しているということです。社会性=インクルーシブ(日本的解釈で)ではないと僕自身は考えています。
 
日本ではインクルーシブデザインとユニバーサル・デザインは同義語で扱われています。エクスクルーシブはその逆、個人のためにあるデザインです。
もちろんユニバーサルという考えは重要だと思います。でも社会全体を取りまとめるデザインはとても難しい。そもそも社会とは何か?社会が認めたデザインが正しいかという疑問が大いに残ります。
 
結局のところ個が集まってグループになり、グループが集まって地域になり、地域が集まって社会を形成しています。森だってよく見れば1本1本の木で成り立っています。
社会と言えども利用する人は個でしかありません。個の満足があってこそ、それをとりまとめた社会があると思うんです。
 
僕は多分世の中ではコレクターとかデザインマニアとして知られています。自分では余り言わないけど、間違ってはないから言われて当然だと思います。マスプロダクトを仕事で関わりながらも、オークションやアートギャラリーでモノを買い漁っています。だからデザインは社会のためだけにあるものという認識はしていません。個人だけを満足させるためのデザインも重要です。でも、デザインは適材適所だと思っています。個人、グループ、地域、社会に求められていくアウトプットは違います。その場に応じた対処をしてこそ機能するものだと思います。個人だけが満足する物と社会が欲する物は違います。しかし、多くの個人が満足するものこそ社会という概念が成り立つと思います。当たり前の事かもしれないけど、様々なところに同じ力で表現していることが多い事を目の当たりにします。結局そのバランスがごっちゃになっている事が多い。
 
ただし、社会は大きなコミュニティです。自己満足ではなく相手の気持ちも考えなければなりません。好き嫌いは個人の判断だけど、社会という中にいるのであれば、客観性を持たなくてはなりません。デザイン的に嫌いでも機能と言う意味で理解しやすいものや、ウチのじーちゃんだったら使いやすいだろうな。という思いやりみたいなものは必要です。だから同じ個人のためのデザインであっても「自分のため」と「自分が考える誰かのため」という違いだけは認識しておかなくてはなりません。
 
それと、重要なのは個人のためのデザインを主張するためには個人がちゃんとデザイナーを支えなくてはなりません。ちゃんと買うということです。個人的なデザインをすればするほど、デザイナーは生活を維持するのは困難になります。好きなデザインを残したいと思うのであればちゃんとそこにコミットしなくてはなりません。その大きな行動が「買う」という事だと思います。ヨーロッパではちゃんとパトロンがいて、個人が満足する物を購入し、デザイナーやアーティストを支えています。パトロンまで言わずともそういった個人の支えがなければ維持はできません。相手もそれを分かっていて、言うだけの人と買う人では信頼関係が全く違います。僕個人もそれをやって来て、とても感じます。
美術館でもコレクターが作ったところが僕は好きです。買うという行為はとてもハードルが高い。それを乗り越えなければ分からないものがあると思います。そういう行為から集められたコレクションはモノとしての魅力を感じさせてくれます。そして、アーティストの気持ちも観客にちゃんと伝わってくる。
 
「柳本さん、最近考えが変わってきましたね」と言われる事がたまにありますが、僕自身はまったく変わって無いのです。
 
追記:インクルーシブについて分かりにくい部分があります。実際の意味によるとエクスクルーシブの集合体が社会性を持ち、インクルーシブになるようなので、僕が言っている事と変わりなく、じゃあインクルーシブでもいいじゃん。ということになりますが、日本ではユニバーサルデザインとごっちゃになっている感があり、本エントリーはそこに抵抗した文章になっています。つまりユニバーサルデザインは障害者や幼児・老人に優しいかもしれないのですが、個人の尊重する、例えば「モテたい」とかという部分はあまり反映されていません。エクスクルーシブは機能だけでは無いそういう欲望の部分を満足させる意味を持っています。
| Design | 04:23 | comments(25) | - |
DESIGNEAST 00

先日のiida発表会の打ち上げの際に、DESIGNEASTの実行委員会メンバーでもあるY原さんから応援を頼まれてましたが、ギリギリになってしまい、スミマセン。
 
東京、福岡とデザイン関連のイベントが定着し出しましたが、ついに大阪でも動き出すことになったようです。しかも名前がDESIGNEAST。なぜ関西でEAST?と思ったんですが、世界の東側という意味だそうです。東京が偉いというわけではありませんが、東京を差し置いてよくぞ世界の東の中心は大阪だ!と大きく出たもんだなと思いました。
現実に内容は大阪近県を中心とした国内の来客にターゲットを当てているし、聞くところによると海外のゲストに打診する時に「東京じゃなくて、大阪なの?」とごねられる事もあったそう。まだまだEASTとなるにはハードルは高いのかも知れません。
 
そして、東京のイベントはトレードショーを中心とし、福岡は繁華街を巻き込んでデザインの面白さを一般に広げていこうとする試み。では大阪はどうなるのか?と思った。
この不景気で東京のイベントはスポンサーが付かずかなり難航しているようです。100%デザインも今年で最後になります。そもそも日本のバイヤーは、展示会でライブのやりとりをするよりも、カタログをもらってウチでじっくり品定めをする傾向があり、会場では反応が全く見えない。海外からの出展者はさぞかし不満だと思う。サローネに出品するデザイナー達もみんな「日本のお客は反応が全く無いからミラノに出すんだ」と言っています。こんな状態でトレードショーをやっても成果はないだろうし、大阪の会場は中之島らしく、心斎橋、梅田、なんばなんかに比べると人ははるかに少ない。一般を巻き込んでいくには難しい立地だ。それ以前に他の都市でやっている事をそのままやってもうまくいくとは思えないし、大阪は大阪なりの展開をする必要があると思う。
で、その答えがトークセミナーを中心とした内容だった。地味だけど僕は納得でした。
 
僕も最近、トークイベントが増えているけど、このところ聞きたい、知りたい人が増えているように感じる。デザイン本も作品集やビジュアル系より、テキスト系の方が売れているようです。それにトークイベントは会場と椅子さえあればゲリラ的にどこでも出来てしまう。お金もかからないし、規模を広げていく事も容易です。あとは、どれだけ巻き込めるかかな。地方からトークだけ聞きにくる人はよっぽど業界人かマニアだろうし、

そして僕自身は、デザイン業界だけでなく、究極的にはおばちゃんも聞いてみたくなるようなスピーカーとデザイン関係者を結びつけ、賛同する人も反対の人も街の中のカフェやショップ、ギャラリーでそれぞれゲリラ的にトークイベントが行われるとイベントの奥行きが広がっていき地域に根ざしたデザイン啓蒙が出来るんではと思っています。いろんなセミナーで建築家の都市論やデザイン啓蒙の事を聞くけど、結局のところ社会にコミット出来ていない。結局は業界内で話しているに過ぎないと感じているからです。そういう意味では分かりやすく伝えることも必要です。
 
ただ、デザイナーズウィークのように大人な諸事情を持ったイベントと違い、若いなりのエネルギーと手探りながらも前に進もうとする気合いみたいなものは感じられます。転ぶのを恐れて何もしないより、転んでも転んでも、立ち上がって前進している人達の方が僕は尊敬します。これを機に、本当にDESIGNEASTの名にふさわしいイベントに発展していく事に期待してます。来年は必ず行きますね。


| Design | 12:31 | comments(4) | - |
クリエイターズ・フリマ @btf

今週末13日の日曜日、15:30~17:00にいつもトークイベントなどでお世話になっている、勝ちどきの@btfにてはじめてのフリマが開かれることとなり、僕も参加します。このフリマ、クリエイターのメンバーを変えて定期的に行なわれるそうで、今回は第一回目。
トークでもお世話になったBRUTUSフクヘンのS木さん、エディターでカメラコレクターなどとしても知られているGンダーラ井上さん、イラストレーターのDハラユキノリさんK子ナンペイさんが他に参加されます。
 
お店は11時から空いてますが、フリマは15:30~17:00ですのでお間違え無く。
この時間は参加者全員が売っていると思います。僕は結構イベントなどで即売とかやってますが、クリエイターの方々とお話をする機会、ましてや私物を売買する機会などなかなかないので、ご興味ある方は是非お越しください!
 
で、僕はというとコレクターものから、ガジェットまで今のところ販売を考えています。
例えば上の写真のMJグッズの1つ、ワイヤレスマイクの1984年製デッドストックです。
他にも、以前ここでも紹介したヘラ・ヨンゲリウスのNIKE AIRFORCE1とかからはじまり、J.Mブロックマンの本物ポスターとか、デザイン本とか、エアラインものとか節操無く陳列いたします。
 
フリマに関わらず、@btfでは僕が出品している商品が販売されています。
プレイボーイクラブで使用されているバーグッズや、ブレードランナーの映画内で使用されたプロップ(小物)、スタンリー・キューブリックが2001年宇宙の旅の打ち上げの際に関係者に配った、ウェッジウッド社製の皿とか、カンタス航空のマークニューソンデザインのアメニティだとか、60年代のキャラクター・シャンプーボトルだとか。
 
皆さん、違う切り口で攻めてくると思うので、参加する僕自身も早めに唾を付けたいと思ってます。
| Culture | 11:34 | comments(6) | - |
9hと朝市
 AXISギャラリーで今日まで行なわれている(もっと早く紹介しろよ!ですが)9hの展覧会を先週見てきました。
簡単にいうとデザイナーズ・カプセルホテルのプロジェクト。カプセル自体からアメニティに至るまでをデザインしていこうというものです。近々にホテルはリアルオープンする予定。
とても面白いプレゼンテーションですが、どこかしっくりこないところがあり、後々それが膨らんできました。
 
70年代、カプセルホテルは安価な宿泊施設として広がっていきました。男の子だったら、どこか未来を想像できる「基地」のようなユニットに憧れた人も多いと思います。現在も外国人ツアーでカプセルホテルの体験があったりしますが、そんな子供の頃に感じた懐かしい未来に心をくすぐられるんだと思います。
 
しかし、その後環境はさらに進化をとげ、24時間営業のファミレス、カラオケBOX、コンビニ、ファーストフードさえ24時間営業に。さらにはサウナやマンガ喫茶やネットカフェなども登場しました。
昔は安価に夜を越すにはカプセルホテルのようなものしかなかったのですが、現在はもっと安価に、もっと快適に夜を越す事ができます。その時代になぜカプセルホテルでなければならないのか?という説得力が薄かった事が僕がしっくりこない要因になっていたようです。
 
このユニットが軽いことを聞いたので、むしろ災害時などに利用できるテントのような簡易宿泊施設として発展したほうがいいのでは?と個人的には思っているのですが。。。
 
その翌日、朝市のようなマーケットを都内につくるプロジェクトのことで、ランドスケープのN原さんのところへ相談にいきました。N原さんは出身の鹿児島を中心に朝市など地方のコミュニティづくりに最近関わっているので、その辺のノウハウを聞くのが相談の主旨でした。
N原さんとはかれこれ15年以上の付き合いで、ランドスケープ・プロダクツ立ち上げから、広尾にあった最初のお店「Wrights」、「PLAYMOUNTAIN」でのイベントやらイームズ展など、ポイントポイントで一緒にやってきました。
たまたまこの日同席したN島さんがN原さんに会うのは「Wrights」以来になるらしく、帰りの途中で「N原さんまるくなりましたね」と言っていました。僕も多分まるくなったけど(体型も)、長年N原さんとつきあってきて顕著に感じます。
時代もあるけど、10年前に朝市をやろうなんてお互い考えもつかなかったと思います。
 
昔はデザインについて何か関われる事、デザインをもっと啓蒙していく意思がお互いあったと思います。それはマイノリティの叫びのようなものだったかも知れません。今はもっと広く社会に関わる事を目的にしています。
分ってもらえないデザインについて気を張って活動していた時代に比べれば格段に肩の力が抜けて、自然体に近くなった。それが「まるくみえる」理由だと思います。
 
と、カプセルホテルとどう繋がるのか?
あの展示を見てデザインが関わる事によって良くなる。という訴えかけに感じたのです。それは、僕たちが10年ほど前に感じていたところと良く似ています。
あの頃はデザインの可能性に疑う余地など無かったし、デザインが何でも出来ると思っていました。
 
最近は思うのは全く違うところです。
よく見る謝罪会見。僕はひねくれているので、こういった会見自体が誰かの手で仕組まれて、世間が納得するストーリーで構成された、いわば「デザインされた」ものに感じます。
謝罪そのものではなく、謝罪したことを理解してもらうことが目的になっています。もしかしたら、目的は達成できても心では謝罪していない可能性もあります。
もし、このような目的達成のために「デザイン」がすべて関与することになったら、建前だけのギスギスした社会になってしまうかもしれません。
 
もちろん、デザイン自体を否定するわけではないですが、デザインする側には傲慢さと過信があるように思うのです。それが社会になかなか理解されない大きな理由になっているように感じます。
 
問題解決のもっとも重要な事は、薄っぺらい言葉になってしまいますが、誠実さだったり、愛だったり、思いやりだったり、もっと人間力に近い部分なんだと思います。これを使えば大抵の問題は解決できてしまうでしょうし、ベースとして最も重要な事だと思います。
それでも問題が解決できない場合、もしかしたらその一部がデザインを使って解決できるかもしれない。そんなデザインやデザインを使って何かをしようとする人には謙虚さが必要だと思います。
 
N原さんと話していると、人間力をうまく引き出してコミュニティを生み出しているところを凄く感じました。そして、必要な部分にだけデザインを使っている。
 
今、デザイナーに求められているのはデザインの力を行使することではなく、全体の中からいかにデザインを関わらせてもらえるのかを見極めることだと感じています。
 

| Life | 12:37 | comments(10) | - |
デザインジャーナリズムとは一体何なんだろう?
 何度かエントリーした、shop btfでのトークセッションが終わりました。
 
いや〜疲れた! 一人で喋ってもこんなに疲れないのに。3時間という長丁場もあったと思いますが、言葉と一緒に出てくるエネルギーみたいなもののキャッチボールがとてもずっしりと重かったのが一番の要因の気がします。さらに進行もやっていたF崎さんはさらにお疲れだったことでしょう。
 
3時間も文句も言わずお聞きいただいたお客さんにも感謝です。
 
自分たちの言いたい事は結構言ったつもりですが、そういえば、デザインジャーナリズムとは一体何なんだろう?という根本的なテーマの総括はされていなかったかもしれません。
個々には持論のようなものは出て来ていたので、あえて総括する必要もなかったのかもしれませんし、そもそもそんなに簡単にまとめられない事かも知れません。
 
僕はトークの中で、
出来上がって市場に現れたものを批評する事の弱さ。(自分の批評がどれだけ、そのものの今後に影響し、市場に影響をもたらせるのか疑問)ということと、最近仕事で市場に現れる前のものを批評(制作に関わる)し、生み出す方が影響あるのではないかというようなことを話しました。
かといって、市場に現れたものを批評するのに意味が無いということは無いとも思います。
僕は僕なりに良いものを生み出すために制作過程で批評していますが、それが正しいとは限りません。だから、それを誰かに批評してもらう必要も感じます。またそれとは別に、モノの考え方、モノの見方を多くの人に知ってもらう必要もあります。
 
世の中を変えるために政治家になる人がいますが、政治家にならずとも方向性(マニフェスト)を理解し、自分の考えを体現してくれる人に一票入れる事も重要だからです。
でも、それには自分の考えを明確にしなければなりません。そして、分りにくいマニフェストを分りやすく説明できるジャーナリストの存在意義もあります。
 
F崎さんがブログでエントリーされた通り、僕も僕の思っている事に賛同してもらえることはそれで嬉しいのですが、以前エントリーしたこともありますが、意見は違っても根本的なところは賛同している事もありますし、もちろん全く正反対の考えだったとしても、ダメとは思わないし、むしろ僕の方が間違っている可能性もあります。
やはり「沈黙(言う事があるけど言わない)」「無関心」の方がよっぽど怖い。
 
別に前回のイベントに対し僕はアジったわけではないけど、結果的にそれが火種になり今回のトークイベントが企画されトーク→ネット→トークと有機的に繋がりました。多分前回のトークイベントよりもさらに関心は高まったと思っています。そして、さらに今回のトークに対し何か意見を言ってもらえると、その波紋はもっと大きくなり、他のところにも飛び火して、根本的に社会がその問題に対し向き合わなくてはならなくなるくらい発展するかもしれません。
 
個人的にはもう少しH塚さんの話を突っ込んで聞いてみたかった。打ち上げも対角線で一番席が離れていたので、その辺がオフレコでも聞けず残念。H塚さん。また別の機会にお聞かせください。
 
もう一つ気になったのはライブ配信でした。
これはS木さんのところでも言及されていますが、リアルに参加する意義みたいなところを少し欠いてしまったかなと思います。(それだけの理由ではないと思いますが、結果的に40人ほど予約者が来なかったようです)
配信されているからこの事についてはしゃべれない。ということは僕自身ありませんでしたが、わざわざ会場に来てくれている人に対してのサービスとしてオフレコタイムがあっても良かったかなと思いました。
あと、LIVE配信を見ていた人は言いかもしれないけど、その後3時間も無編集の映像を見るのも、自分だったら面白いかなあ?とちょっと疑問に思います。
 
 
 
前回トークに参加し、今回はお客さんとして参加していただいたO田さんから「ウェブマガジンは発展するか?」というような質問が出ました。
 
既存のメディア、テレビや雑誌にはそれぞれ特有の構成があります。現在は過渡期なのでウェブ上でも従来の紙メディアに近い構成のもとウェブマガジンは存在していますが、僕は恐らくウェブなりの表現がもっと確立すると思います。
前回の各ブログのやりとりを読者はリンクを飛びながら読んでいたはずです。それ時点で無意識のうちに読者は自分で編集した一つの対談ページを完成していたことになります。これがウェブにできる自由さの気がします。
ブラウザ(インターネットを立ち上げると最初に出てくる画面。ニュースや検索エンジン、天気予報などが一面で構成されているもの)を例えば検索エンジンはGoogle、ニュース欄は日経、お気に入りのブログなど個人個人が自由にカスタマイズするようになったら(すでにそういうソフトはありますが)、それで自分が編集長のウェブマガジンが完成するのではないかと思っています。ブログのように自由に自分で解説できるメディア世界こそウェブの媒体としてのあり方にも感じるのですが皆さんはどうでしょうか?
 
| Design | 23:58 | comments(0) | - |
特別授業

3ヶ月ほど前だったか、O咲さんから連絡があり、彼が講師を務めている女子美短大で特別授業をやって欲しいというオファーがありました。
 
最近の学生は好奇心、探究心が無い。モノを見る、見ようとする機会も意欲も少ない。自分にしか興味無い。など、今の学生が持っている問題に何か好影響をもたらしたい。というのがO咲さんの考えのようです。彼のテーマでもある「見る」「積み重ねる」事の重要性を、僕のコレクションを使って伝えられればというのが主題です。
僕は教えるなんて出来ないけど、伝える事は出来ると思い、二つ返事で了解しました。
 
そもそも短大で美術って何するんだろうという疑問を持ちつつ、学校に行ってみると、イメージがちょっと違っていました。
会社員時代、大妻短大の近くにオフィスがあったんですが、いかにもギャルっぽい女の子ばっかりでした。四大とは全く違う人種。でも女子美はギャルらしき人は皆無。O咲氏曰く、ずっと下を向いた引きこもりタイプが多いそうです。
 
授業では、あまりマニアックなコレクションを見せても興味を抱いてもらえないので、女の子がとっかかりやすい雑貨っぽいものを中心にセレクトしました。
上の写真でテーブルに広がっているのは世界の牛乳パックです。これはグラフィック的視点が中心。乳脂肪分の差別化をどう行なっているのか、使われてる言語で国家間の交流密度が見える事、民族的・宗教的側面、などグラフィックだけを見ても国々の文化が反映されている事を理解してもらう事が目的です。
 
奥には洗剤のボトルが並んでいます。これはプロダクトデザイン的な側面が中心。子供がすぐに使えないチャイルドロックやスプレーの持ち手の構造など。僕が最初に集め出したきっかけは色使いでした。紫と黄緑の組み合わせなんて日本では絶対見る事がありません。
 
その手前は文具。パッケージのグラフィックもさることながら、ハサミや糊やクリップ、画鋲などの様々な構造を紹介。中には200年前のものもあったりします。 
 
文具の前は世界中の郵便局の伝票フォーム。それとFRAGILEのシールやガムテのサンプルです。
 
このテーブルは紙もの中心。手前からメキシコオリンピックのグッズ関連。今回一番反響があったのが、このオリンピックのチケットで、当時メキシコに多かった文盲者のために座席シートのナビゲートがすべてピクトグラムで紹介されているものでした。
その先がプッシュピンスタジオのもの。自社発行しているPR印刷物「Pushpin Graphics」や、企業のために制作したパンフレット類など。
その先はアレキサンダー・ジラルドのファイル。雑誌記事や生地サンプルなどが中心。
その次はブラニフ航空のファイル。アメニティやノベルティ、ステーショナリーなど一般の目に触れない社内用品などもあります。
その次はミュンヘン・オリンピックもの。トータルデザインとして究極的な展開をしたイベントです。チケット類はもちろん、ジャーナリスト、医療部隊向けのマニュアルや施設内で使ったゴミ袋など(こんな細かいアイテムもすべてデザインしている)を紹介。
最後はミュンヘンのデザインをおこなったオトル・アイヒャーが手がけたルフトハンザ(ドイツ航空)のグッズです。
 
先人の残した(遺した)モノを通して何を学ぶべきか?僕は自分が気づいたいくつかの事を伝えるだけで、それぞれがそれぞれの見方を考えなければなりません。
また、過去のモノに敬意を持ちつつも、僕たちは今を生きているので、これをどう繋いでいくか?どうエッセンスを加えれば多くの人に受け入れられるか?を考えなければなりません。
 
だから、僕の集めるという行為だけを真似してもらっても困るんです。
逆に、僕の収集がマニアックだから真似できないと最初に匙を投げられてしまっても困ります。最初はなんでもいいんです。コーヒーを飲みにいった時に使ったマドラーや、遊園地の入場券、お菓子のラッピングなど。
 
重要なのは普段何気なく見過ごしていたものに目を向ける視点です。気づけば身の回りにはいろんなものがあることを。
 
授業終了後、片付けを手伝ってくれた一部の学生とお茶を飲んでいる時、一人の学生が紅茶のティーパックの取手にあった取り説を見てハサミで切っていました。
少しはやった意味はあったと実感できました。
| Collection | 23:24 | comments(0) | - |
LIVE配信
7月25日 btfで行なわれるトークイベント
その際のブログのアクセスも結構上がっていたので、皆さん興味がある話題のようです。
 
ありがたいことに、一次募集、二次募集共に驚きの早さで定員になったそう。
それでも溢れてしまった方、地方なので参加できない方のために、
急遽、web上でライブ配信をすることになったそうです。
 
当日はここbtfのオフィシャルHPからご覧になれるそうです。
ご興味ある方は当日是非ご覧ください。
| Culture | 16:15 | comments(0) | - |
retro futuristic design
世間はクラフトやらほっこりやらだけど、僕自身ここ最近、ぼんやりとデザイン回帰が始まっている感じがします。
 
Folk Toys Nipponのコラムで「劣化」と「再生」の話をしましたが、モダニズムのきっかけにもなったプリミティブ思考は、モダニズム劣化の度にフォークアートブームみたいな形で登場し、再生されるようなことを書きました。
で、毎度登場するフォークアートブームの後、必ずモダンデザインが台頭します。
フォーク(プリミティブ)アートは自由への解放みたいなもので、表層に縛られたデザインみたいなものを洗い流してくれます。洗い流すと目的がシンプルになってくる。用の美みたいなものが際立ってきます。そうすると、複雑な装飾からまたシンプルに戻っていく。で、モダンデザインが復権し再生するのです。
今のほっこりブームもやや用の美に立ち戻っている段階です。そろそろまたデザイン(ブーム)が再来するでしょう。
 
先日エントリーした「純粋なる形象」展が何故このタイミングなのも分る気がします。
戦後に起ったフォークアート回帰を終え、モダンデザインが再生した極みみたいな時代のデザインですから。
 
そして今回のデザインブームのテーマをあえていうと「retro futuristic design」。
 
レトロ・フューチャーというと60年代くらいのデザインを彷彿させます。
あの時代は未来に相当な希望を持っていました。鉄腕アトムや2001年宇宙の旅は多分未来に訪れるだろうと誰しも思っていました。
あの頃想像していた未来に今は到達しましたが、実際はかなり違っていました。
今見てみると、昔考えていた未来ってどこか未来らしく、反面懐かしさがある。それがレトロ・フューチャーです。
 
未来は70年代後半位からリアリティと重なるようになってきました。
ブレード・ランナーやスター・ウォーズの世界は未来的部分も持ちつつも、現在と変わらない(継承される)部分も持つ。
実際、掘りごたつに入って(昔からあるもの)携帯メール(未来的なツール)を打つのは現実の未来の姿です。
 

写真は僕のコレクションの中にあるアメコミ「AMAZING STORIES」(1928年)アメリカでは有名なSFヒーロー「Buck Rogers」が世に登場した最初の作品ですが、ここに描かれている表紙はかなりリアリティと結びつけられています。この後作品はかなり宇宙物になっていき、フィクションの世界で覆いつくされます。


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| Culture | 23:34 | comments(2) | - |
shop btfトークショー決定

一ヶ月ちょっと前、O田さんF崎さんのトークショーの感想をここでエントリーし、その後S木さんなど周辺のブログで様々な議論が飛び交った事は皆さんご存知かと思います。
その後、会う人たちにもその件に対し「面白かった!」とか「ああいう議論をするべき」などと言われました。(感想ではなく、彼らがどう思っているのか個々の意見を聞きたかったのですが、パーティの立ち話などが多く突っ込んだ話が出来ず)
F崎さんにもその後お会いしたとき、当然その話になって「事前打ち合わせをした方が面白くなる場合としない方が面白くなる場合があって、この前は後者だったんだけど、打ち合わせをしてしまったのがあまり良くなかったかもしれない」と言ってました。
 
ブログでのやり取りの後、数日後にShop btfのM本さんから、議論のメンバーの要望や周囲の反響があり、是非近いうちにトークイベントをしたいとの打診があり、今回参加のスピーカーの日程調整の後、7/25に開催する事が決定しました。
 
メンバーはデザインジャーナリストのF崎さん、BRUTUSフクヘンのS木さん、建築系を中心にライターをやっている、ぽむ企画のH塚さん、それと僕の4人です。
しかも、途中休憩をはさむものの15時半〜18時半というロングトークです。
特にテーマタイトルみたいなものは無かったんですが、もちろん前回のトーク議論を受けているので「デザインジャーナリズム」みたいなものが中心になってくるのではないでしょうか? 
皆さんデザイン・建築あたりに関わる仕事をしていながら、立ち位置が微妙に違うので、様々な角度から話を聞く事ができそうです。参加する僕も楽しみです。
 
Shop btfも隣の部屋をぶち抜いて、倍くらいの大きさにリニューアルしたばかりです。多分トーク参加定員も多くなるともいますが、お早めに予約した方が良いと思いますよ。
 
予約はこちらから。

 
おかげさまで即定員となったようです。ありがとうございました。
| Culture | 22:29 | comments(0) | - |
Less and More?

遅ればせながら、府中市美術館で行なわれている「純粋なる形象」展を見に行ってきました。
府中は20年くらい前に1年ほど住んだ事があります。しかし、この物覚えがいい僕が全くと言っていいほど駅前の雰囲気を覚えていないんです。もちろん20年で駅ビルなんかなど相当変わってはいるものの、街並まで変わるはずないのですが。。。
 
この展覧会は昨年大阪のサントリーミュージアムから始まったものです。ご存知の方は多いと思いますが、BRAUNでデザイナーをやっていたディーター・ラムスの作品を中心に展示しています。
 
BRAUNやディーター・ラムスといったらこのブログでも何度となくエントリーしてきました。人は置かれている状況などによって物事の受け取り方が変わりますが、僕もその度にい受けた想いが変わっています。今現在、僕はデザインという枠から一歩足を出したスタンスにいること、と言いながら様々なプロダクトデザインの開発でデザイナーと交流が密になっていること、それと散々デザインを見たり使ったりしてきたことなどもあり、2005年にアクシスで行なったBRAUN展に関わった時と変わらない想いもあれば、変わっている部分もあることに気づきます。
 
ディーター・ラムスは凄いと思います。また彼のデザインポリシーはBRAUNという組織とそれを取り巻く人々がいたからこそ生み得た奇跡だとも思います。
デザイン10か条は重みもあるし、納得できる。それを前提としてあえていうと、ラムスにあまりにも傾倒する危険性もあります。
60年代にひげそりメーカーであるジレット社にBRAUNは買収され、90年代位からジレットの影響力が高まり、ラムスは経営者と折り合いがつけられずに退社しました。現在ジレットはさらにP&Gに買収され、より大衆的なアプローチになっています。
ここまで多くの人に絶賛されるBRAUNデザインが何故無くなったのでしょうか?
 
初期のBRAUNは市場の4%シェアを(それもトレンドリーダー)握ることを考えていました。4%には有名デザイナーや建築家が該当しました。彼らが実際使ったり、自らの空間で用いたりすることによってその周りの20%位のフォロワーを囲い込んだのです。今でいう「セレブ御用達のこだわりの逸品」みたいな売り方をしていたわけで、これがラムスの嫌ったマーケティングそのものでは無いでしょうか?
 
それが利かなくなった大きな理由はリーダーからユーザー側に主導権が変わったからです。これは豊かさと時代の流れです。要は昔は物が少なかったのでリーダーの視点などが選択肢の支軸になっていましたが、物が多くなり、生活スタイルも様々になってくるとスタイルに応じたものの選択が要求されます。この流れについていけないものは淘汰されていくのです。同じ方向のデザインでもアップルはちょっと違います。アップルはプロダクトだけではなく、それを取り巻くツールやアプリケーション、ソフトで世界観を作っています。
IBMはハード権利を売ってしまった。オリヴェッティも失敗し、スティーブ・ジョブスが作ったNEXTも失敗しました。ハードだけ作っていたデザイン企業は衰退していったのです。これが時代の潮流です。
先人のデザインをちゃんと評価するのは重要ですが、どこかしこりが有る感じがします。もしかすると「あの頃はこんないいものがあった」というどこかノスタルジックな気持ちがそうさせているのかもしれません。
 
現にラムスの作品も皆、50~60年代の作品に注目しますが、現代の作品に対しコメントしている人を知りません(誰か好きな人がいたら教えてください)。
同じデザイナーが同じ哲学を持ちデザインしているのであれば現在の作品も評価できるはずです。でも近作を僕は良いと思わない。
多分復刻したとしても余り売れないと思います。もうすでにアップルが現代的な展開をしているのですから。
 
 
それとよく見るとわかってくるのですが、ツマミやボタンの配置が限りなく規則的に、そしてデザインコンシャスにまとめられています。シンプルながらも僕たちがBRAUNのデザインに魅了されるのは視覚的な法則をふんだんに使っているからです。
 

BRAUNで最も有名なプロダクトでもあるSK4ポータブルプレーヤー。これはウルム造形大学の工業科部長だったハンス・ギュジョロとラムスの合作ですが、赤線で引いたように空きの間隔や配置がグリッドによって決まっている。プロダクトデザインでありながらグラフィック的な処理をしていることが分ります。これがカッコいいと思わせる秘密。
装飾をシンプルにするという装飾がBRAUNのデザインに見ることが出来ます。決して装飾が無いわけではないのです。 
 
グラフィック的な視点からBRAUNを分析している人は余りいないと思いますが、そこには当時のスイスやドイツで盛んだったモダニズムの哲学が踏襲されています。多分、その後多くのデザイナーがこのBRAUNプロダクトを模倣する際に、その哲学的部分を切り捨ててしまったと思います。それがモダニズムの劣化です。シンプルゆえ簡単に模倣できますが、コクのないスープのようにモダンデザインはどんどん生み出されます。その嫌気が60年代末のラディカル運動やその後のポストモダンを盛り上げるきっかけになりました。
奇しくもBRAUNを生み出したウルム造形大学は68年に閉校します。こういった流れもBRAUNのデザインを存続していけなかった理由ですが、この劣化が起らなかったとしても、しょっぱいものをずっと食べていたら甘いものが食べたくなるように、人々は本能的に変化を求めていたのでしょう。
 
今の僕の見方からはデザイン10か条では足りない要素がまだあると考えます。
僕はモダンもポストモダンも好きです。だからロバート・ベンチューリが「Less is Bore(少ないことは退屈だ)」と言った言葉とミースの「Less is More(少ないことは豊かだ)」、そしてラムスの「Less and More(より少なくより良いものを)」とのバランス加減が重要だと思っていて、ラムスの言葉やデザインをそのまま鵜呑みにしてはいけないなと感じるのです。
| Design | 23:23 | comments(2) | - |
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