AXISギャラリーで今日まで行なわれている(もっと早く紹介しろよ!ですが)
9hの展覧会を先週見てきました。
簡単にいうとデザイナーズ・カプセルホテルのプロジェクト。カプセル自体からアメニティに至るまでをデザインしていこうというものです。近々にホテルはリアルオープンする予定。
とても面白いプレゼンテーションですが、どこかしっくりこないところがあり、後々それが膨らんできました。
70年代、カプセルホテルは安価な宿泊施設として広がっていきました。男の子だったら、どこか未来を想像できる「基地」のようなユニットに憧れた人も多いと思います。現在も外国人ツアーでカプセルホテルの体験があったりしますが、そんな子供の頃に感じた懐かしい未来に心をくすぐられるんだと思います。
しかし、その後環境はさらに進化をとげ、24時間営業のファミレス、カラオケBOX、コンビニ、ファーストフードさえ24時間営業に。さらにはサウナやマンガ喫茶やネットカフェなども登場しました。
昔は安価に夜を越すにはカプセルホテルのようなものしかなかったのですが、現在はもっと安価に、もっと快適に夜を越す事ができます。その時代になぜカプセルホテルでなければならないのか?という説得力が薄かった事が僕がしっくりこない要因になっていたようです。
このユニットが軽いことを聞いたので、むしろ災害時などに利用できるテントのような簡易宿泊施設として発展したほうがいいのでは?と個人的には思っているのですが。。。
その翌日、朝市のようなマーケットを都内につくるプロジェクトのことで、
ランドスケープのN原さんのところへ相談にいきました。N原さんは出身の鹿児島を中心に朝市など地方のコミュニティづくりに最近関わっているので、その辺のノウハウを聞くのが相談の主旨でした。
N原さんとはかれこれ15年以上の付き合いで、ランドスケープ・プロダクツ立ち上げから、広尾にあった最初のお店「Wrights」、「PLAYMOUNTAIN」でのイベントやらイームズ展など、ポイントポイントで一緒にやってきました。
たまたまこの日同席したN島さんがN原さんに会うのは「Wrights」以来になるらしく、帰りの途中で「N原さんまるくなりましたね」と言っていました。僕も多分まるくなったけど(体型も)、長年N原さんとつきあってきて顕著に感じます。
時代もあるけど、10年前に朝市をやろうなんてお互い考えもつかなかったと思います。
昔はデザインについて何か関われる事、デザインをもっと啓蒙していく意思がお互いあったと思います。それはマイノリティの叫びのようなものだったかも知れません。今はもっと広く社会に関わる事を目的にしています。
分ってもらえないデザインについて気を張って活動していた時代に比べれば格段に肩の力が抜けて、自然体に近くなった。それが「まるくみえる」理由だと思います。
と、カプセルホテルとどう繋がるのか?
あの展示を見てデザインが関わる事によって良くなる。という訴えかけに感じたのです。それは、僕たちが10年ほど前に感じていたところと良く似ています。
あの頃はデザインの可能性に疑う余地など無かったし、デザインが何でも出来ると思っていました。
最近は思うのは全く違うところです。
よく見る謝罪会見。僕はひねくれているので、こういった会見自体が誰かの手で仕組まれて、世間が納得するストーリーで構成された、いわば「デザインされた」ものに感じます。
謝罪そのものではなく、謝罪したことを理解してもらうことが目的になっています。もしかしたら、目的は達成できても心では謝罪していない可能性もあります。
もし、このような目的達成のために「デザイン」がすべて関与することになったら、建前だけのギスギスした社会になってしまうかもしれません。
もちろん、デザイン自体を否定するわけではないですが、デザインする側には傲慢さと過信があるように思うのです。それが社会になかなか理解されない大きな理由になっているように感じます。
問題解決のもっとも重要な事は、薄っぺらい言葉になってしまいますが、誠実さだったり、愛だったり、思いやりだったり、もっと人間力に近い部分なんだと思います。これを使えば大抵の問題は解決できてしまうでしょうし、ベースとして最も重要な事だと思います。
それでも問題が解決できない場合、もしかしたらその一部がデザインを使って解決できるかもしれない。そんなデザインやデザインを使って何かをしようとする人には謙虚さが必要だと思います。
N原さんと話していると、人間力をうまく引き出してコミュニティを生み出しているところを凄く感じました。そして、必要な部分にだけデザインを使っている。
今、デザイナーに求められているのはデザインの力を行使することではなく、全体の中からいかにデザインを関わらせてもらえるのかを見極めることだと感じています。